北条泰時、皇位継承に介入~後嵯峨天皇の即位の背景と経緯

鎌倉時代
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北条氏惣領(棟梁・リーダー)としての立場が弱かった北条泰時は、評定衆という合議体制を敷くことで、自身の立場の強化をはかっていきました。

 

 

そんな泰時ですが、朝廷・寺社への姿勢は強硬的であったといえます。先々代の時政、先代の義時よりも強硬的です。

承久の乱の勝利合議体制の確立による幕府の結束が強硬策を可能にしたといえます。

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皇位継承への介入

1221年(承久三年)に勃発した承久の乱。

 

 

幕府方の勝利によって、後鳥羽上皇は隠岐に、後鳥羽の息子の順徳上皇は佐渡に流されました。さらに、順徳上皇の息子の仲恭天皇は廃位されます。

後鳥羽上皇の息子で、順徳上皇の兄である土御門上皇は乱に関与していなかったので、幕府からおとがめはありませんでしたが、「父親が流罪となったのに息子の自分が都に残るのは忍びない」として土佐に赴きます(実際は阿波で留まりました)。

後嵯峨天皇系図

幕府は、後鳥羽上皇の血を引かない後堀河天皇を即位させました。

1232年(貞永元年)には、まだ2歳の四条天皇に譲位し院政を開始しましたが、1234年(天福二年)に後堀河天皇が23歳で崩御されます。

さらに8年後の1242年(仁治三年)、四条天皇が崩御してしまいます。まだ12歳。当然ながら、四条天皇には皇子はいません。

そのため、土御門上皇の皇子邦仁王(くにひと)と、順徳上皇の皇子忠成王(ただなり)が皇位継承者として浮上しました。

当時の朝廷では、忠成王の生母が九条家出身ということもあって、左大臣二条良実らを中心とする藤原摂関家は忠成王を即位させようと画策していました。

皇位継承は天皇・朝廷の専権事項ですが、承久の乱後は朝幕の力関係は逆転していたことから、いちおう朝廷は幕府の意向を聞くべく使者を鎌倉に下向させます。

ところが、執権泰時は朝廷の意向に反対し、邦仁王の即位を求めたのでした。

泰時は幕府執権とはいえ、官位においては正四位。その正四位の泰時が正二位の二条良実の言うことを聞かないのですから、当時の幕府の力がどのようなものか想像できるかと思います。

泰時が反対する理由は明解です。

  • 承久の乱で、順徳上皇は討幕推進者で、土御門上皇は討幕計画に全く無関係。
  • 順徳上皇はいまだ佐渡に存命中で、息子の忠成王が即位すると、上皇が帰京し院政開始。
  • 順徳上皇の息子忠成王より、土御門上皇の息子邦仁王の方が幕府にとって安全。

幕府の意向によって、邦仁王は後嵯峨天皇として即位します。

本来、天皇になれなかった後嵯峨天皇は、幕府の意向によって即位できたのですから、幕府に悪い感情を抱くわけがありません。後嵯峨天皇は幕府と良好な関係を構築します。

この後嵯峨天皇の即位は、天皇の廃立さえ幕府によって左右されることを世の中に見せつけた件として、歴史的意義は大きいのです。

もう少し時代は後になりますが後嵯峨天皇以降、皇室は持明院統と大覚寺統に分裂し、南北朝時代をもたらすことになります。

寺社への介入

泰時は、畿内近国の寺社勢力に対しても強硬策を展開しています。大和国は中世を通じて、南都興福寺が完全に支配するくらい寺社勢力の強い土地でした。当然、幕府も守護の設置には慎重にならざるを得ません。

1235年(嘉禎元年)、山城国において石清水八幡宮領の薪荘と興福寺領の大住荘(ともに京都府京田辺市)との間で用水に関する争いが発生しました。

この衝突は徐々に拡大され、薪荘の60軒が興福寺僧兵によって焼打ちにされ、更に石清水八幡宮の神官2名が殺害されるという事件が起こりました。このような紛争が繰り返し起きたため、朝廷・幕府としてもこれを放置することができなくなってきました。

1236年(嘉禎二年)10月、幕府は興福寺の騒動を鎮めるために、今まで守護を設置したことのない大和国に守護を置き、興福寺荘園を没収した上で地頭を任命することを決定し実施しました。

翌11月、これらの騒動はいったん沈静化したので、この守護・地頭を廃止しますが、旧勢力の象徴である興福寺でさえ、幕府には逆らえない印象を世に与えたのでした。

むすび

朝廷・寺社に対する幕府の強硬策は、合議体制によって幕府の体制を安定させた泰時よって可能になりました。そして、これらの強硬策によって、幕府の力を世に知らしめることになったのです。

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