鎌倉後期の社会。荘園同士の争いで大変な時代へ

鎌倉時代
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人々が平野に住むようになったのは江戸時代より少し前、戦国末期や安土桃山時代の頃です。城下町やらなんやら都市ができていきますが、このように平野に人々が住めるようになったのは、土木技術・治水技術の急速な発達があったからです。

平野に人が住まない鎌倉・室町時代。限られた土地を巡って争いが絶えることはありませんでした。

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荘園を巡っての争い

特産品と流通網の発達

現代日本に住む私たちは平野に住むことは当たり前のように考えていますが、鎌倉時代や室町時代の中世においては、平野に住むというのは不便極まりないものでした。というのも、平野は水害に遭いやすく、食料などの物資が手に入りにくい場所だからです。

それゆえに、荘園・所領の近くに山川海があるというのは、非常に重要なことでした。

山が近ければ、木材の調達が容易になり、建築だけでなく、薪や炭として生活の燃料に使うことができます。また、鹿や猪・山鳥の肉は重要なタンパク源です。

川や海に近ければ、水産資源の獲得が容易になりますし、川の水は用水にも利用され、農業生産活動を行いやすくなります。

そして、これらの山川海の恵みは、自分たちで利用するだけでなく、鎌倉時代になって発達してきた「流通網」にのって遠い土地にも届けられるようになりました。各地域で特産品のようなものが生まれていくわけです。

一方で、物資の流通が盛んになるにつれ、その資源を巡って争いが頻発するようになります。

鎌倉時代後期は、経済の発展とそれに伴う争いという新たな社会問題を抱えていくことになります。

紀伊国での争い

紀伊国粉川寺(こかわでら)領丹生屋(にゅうのや)村(和歌山県紀の川市)と、となり村の高野山領名手荘は、境界を流れる水無川からの取水権と源流の椎尾山の帰属をめぐって激しい争いを起こしたことが伝わっています。

この紛争は最初は訴訟によって始まりました。訴えは六波羅探題から朝廷に持ち込まれ、1250年(建長二年)に朝廷から「丹生屋村(粉川寺)の勝ち」の裁決が下りました。

しかし、それに不満をもつ名主側(高野山)は、弓矢で武装し、甲冑を着て丹生屋村に乱入した挙げ句、用水堰をとめ、刃傷事件を引き起こします。

紛争は拡大し、1252年(建長四年)には高野山側は各地から悪党を呼び寄せ、支配下の各荘園管理者から兵糧を徴収し臨戦態勢を整えます。そして、高野山側の武装集団数百人は丹生屋村に乱入し、村を焼き払い、村人を死傷します。

このように、村落レベルの対立が荘園間の紛争に発展し、荘園領主がその紛争に関与するようになったことから、さらに紛争は拡大していきました。軍事力を持たない荘園領主は悪党を雇うことで解決しようとしたので、悪党の勢力拡大を助長させることになります。

沙汰人

荘園での悪党事件の中心を担っていたのが、「沙汰人」という荘園有力者でした。荘園はややこしいですね。色んな職が出てきます。

沙汰人は「沙汰人中」という集団を作り、荘園内部の有力者集団として、村と荘園領主の間に位置していました。

正確には、皇族・貴族・寺社といった中央の荘園領主から現地荘園の管理を任された荘官(公文・下司・田所)と、村人たちの間に立っていたわけです。沙汰人は村長とかでもないのです。

沙汰人中は、荘園領主の意向を村に伝えると同時に、村の意思を領主に伝える役目を担いました。年貢の徴収を実際に行ったのも彼らです。

また沙汰人は、荘園の検断(刑事)事件の解決にも役割を果たして、紛争が起こると戦いのリーダーとなりました。

このように多彩な役割を果たす沙汰人によって、荘園領主の荘園支配は可能になったのです。さらに沙汰人の代表者が、公文・下司・田所の荘園管理者に任命され、荘園経営に深く関わっていきます。

ところが、鎌倉後期になると、この沙汰人が悪党になっていきます。「峯相記」に出てくる東寺領播磨国矢野荘(兵庫県相生市)の寺田法念は、沙汰人の代表者で公文でしたが、荘園領主の東寺と対立して悪党化していきます。

悪党・鎌倉時代のもう一人の主役
当サイトでは、伊豆国の一介の役人でしかなかった北条氏が、河内源氏の嫡流・源頼朝と「ひょんなことから」縁戚関係になり、鎌倉幕府を牛耳っていく姿を主としながら、頼朝に最も近い血統と血縁をもちながらも北条氏の次の家格に止まり、しかし着実に室町将軍...

荘園の一円領化

東寺領と興福寺領の争い

永仁年間(1293~1298)、大和国東寺領平野殿荘(奈良県平群町)と隣接する興福寺領安明寺・吉田荘(奈良県平群町)との間で境界の山野をめぐる紛争が勃発します。

興福寺安明寺・吉田荘側は、公文などのの荘官・沙汰人・百姓を結集して武装し、東寺領平野殿荘の山野に乱入し、木を伐採して草を刈り取るという実力行使を行いました。この実力行使は、中世の人達の権利行使の手段として認められていました。その土地が自領であることを主張するために行う行為で、もし刈り取りをしなければ、相手の支配を認めてしまうことになるのです。

当然、平野殿荘の領民は怒り心頭で、領主の東寺に訴えたのですが解決されませんでした。その結果、平野殿荘の荘官と百姓は、「東寺側にいたらこっちの身がヤバいわ。いっそのこと、興福寺側に入ろう!」ということで、村ごと東寺の支配から離れて興福寺の支配下に入ることで、自力で問題解決をはかりました。

荘園現地の要求に応えられない荘園領主は、現地の荘官・沙汰人・百姓らによって見限られるようになったのです。

一円領化

鎌倉後期になると、荘園現地と荘園領主の間に緊張が高まります。先ほどの東寺のように、現地からの安全保障の要求に応えられない領主は排除され、領主としての責任を果たすことができる領主だけが、領主として認められるようになっていくのです。下から領主を選ぶ時代が来たのです。

このように荘園において、他領主による支配を排除し、単独の領主が排他的に荘園を支配することを一円領化といいます。

鎌倉時代前期の荘園では、一つの荘園に本家・領家などの荘園領主から、預所・下司などの荘官、さらには地頭などが重なり合って複雑かつ重層的に権利をもっていました。だから、ややこしいのですが、一円領化によって、このような重層的な権利が整理され、領主と現地が直接結びついていくのです。

地頭が荘園を侵略した結果、荘園が荘園領主分(領家分)と地頭分の二つに分割される下地中分(したじちゅうぶん)も一円領化の一つです。

しかし、荘園領主であれ地頭であれ、一円領化して現地との結びつきを強めなければ、領主として支配できない状態になったのが鎌倉時代後期なのです。

悪党も、この一円領化の動きと密接に関係していました。荘園現地の有力者である沙汰人からの離反、そして領民の持つ力の拡大、新しい領主の選択という形で、下からの荘園の一円領化を推し進める原動力になります。

むすび

鎌倉時代後期は、蒙古襲来・貨幣経済の到来などによって困窮した御家人たちが没落していきますが、幕府の勢力圏外では、激変する社会に対応できない荘園領主は没落していくことになります。鎌倉時代後期は社会の大転換期にあったのです。初の武家政権「鎌倉幕府」は難しいかじ取りを迫られていることになります。

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鎌倉時代荘園
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