悪党・鎌倉時代のもう一人の主役

鎌倉時代
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当サイトでは、伊豆国の一介の役人でしかなかった北条氏が、河内源氏の嫡流・源頼朝と「ひょんなことから」縁戚関係になり、鎌倉幕府を牛耳っていく姿を主としながら、頼朝に最も近い血統と血縁をもちながらも北条氏の次の家格に止まり、しかし着実に室町将軍への基盤を築いていく足利氏の姿を記事にしています。

つまり、鎌倉時代を舞台として、鎌倉幕府の実質的トップ北条氏と室町幕府のトップ足利氏を描こうとしているのです。

しかし、よくよく考えれば、北条氏も足利氏も体制側の氏族なのです。鎌倉時代後期において、幕府にも朝廷にも属さず、しかし時代の表舞台に現れ、幕府の存続を揺るがす人たちを取り上げないわけにはいきません。

彼らこそ「悪党」と呼ばれる集団であり、体制側の北条氏や足利氏などとは異なる勢力です。のちに南朝方の武将として活躍する楠木氏や、室町幕府四職の一つ赤松氏も悪党出身と言われていることは有名な話です。彼らは北条氏や足利氏とは異なる「血統」なのです。近年の研究では、楠木氏は武蔵国出身の御家人、赤松氏は上野国出身の御家人という説も主張されていますので、これはまたの機会に記事にしましょう。

今回は、鎌倉時代のもう一つの主役「悪党」について見ていきましょう。悪党の活動は、得宗専制政治と言われる時代と重なっていることから、北条貞時以降の鎌倉時代が見えてくるにちがいありません。

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悪党とは

悪党とは何か。辞書によれば、以下の3つです。

  1. 悪事をはたらく者の集団。
  2. 鎌倉時代後半から室町時代前期に活発な動きを示した、荘園の反領主的な武士・荘民とその集団
  3. 人をののしって呼ぶ言葉

当サイトで紹介する悪党は当然「2」です。

この悪党の活動は、全国各地でみられたそうですが、とりわけ播磨国(兵庫県南西部)で活発に活動したことがよく知られています。

峯相記

幕府の使者は彼らから受ける賄賂や彼らの勇威を恐れて、幕府の命令(御下知)を実行せず、御教書(みぎょうしょ)は役に立たなくなってしまった。播磨国中の者たちは、彼らに同意するようになってしまい、正直で真面目な人々は耳を押さえ目をふさいで日をおくるうちに、はたして元弘の大事件が勃発した。彼らの所行は、幕府政治(武家政道)の失敗によるのである。

ここにみられる「彼ら」こそが悪党です。元弘の大事件とは、後醍醐天皇によって鎌倉幕府が倒されたことを指していて、幕府が倒れたのは悪党のためだと言っているのです。しかも悪党は、国中の人々から同意を得ていて、さらにこのような悪党を生み出したのは幕府の失政だと言っています。

この史料は、南北朝時代に成立した、播磨国を題材とする記録「峯相記(ぶしょうき/みねあいき)」です。ある旅の僧が、1348年(貞和四年)10月18日に播磨国峯相山鶏足寺を訪れ、2日間にわたって語り合ったという内容で、作者が質問をし、老僧が答えるという形式で書かれています。

18日は、宿坊で様々な仏教の宗派を論じ、翌日は寺内の常行堂で、鶏足寺の縁起から始まって播磨国の寺社、地理、歴史を述べたうえで、近い過去の問題として、「悪党蜂起」から元弘の乱(1331~1333)にいたる過程と、それ以降の播磨の状況について話すという構成です。

作者の詳細については不詳ですが、播磨で活動した浄土宗関係の人物であると推定されています。

悪党の時期区分・第1段階(1299年より以前)

「峯相記」の作者が質問した。日本全国どこでも悪党の活動は盛んというものの、播磨国は特に活動が活発で、一体いつごろから悪党が盛んに活動するようになったのだろうか?老僧は答えた。元々上岡荘・高家郷などのごく一部の荘園で紛争が起こっていたけれども、それほど大事に至っていなかった。

つまり、悪党の活動は目立っていなかったのです。

悪党の時期区分・第2段階~正安・乾元の頃(1299~1303)

それは、正安・乾元の頃から目に余り、耳に聞こえるようになった。乱暴・海賊・寄取・強盗・山賊・追落など休む間もないありさまで、その異類・異形の様子は、普通の人々とは全く異なる。柿色の帷子に六方笠を着け、烏帽子や袴はつけない。人に顔をあわせないように忍び隠れている様子である。不揃いの竹籠を背負い、柄・鞘のはげた太刀を所持し、竹長柄・サイホウ杖程度で、鎧・腹巻等の兵具はまったくない。こうした輩が、10人・20人あるいは城に籠もり、寄せ手に加わり、あるいは味方を引き入れ、裏切りを専らとし、約束を守らず、博打・博奕を好み、盗人を生業としている。守護が取り締まるも日に日に増加する一方である。

この段階の悪党を「前期悪党」と呼ぶことにしましょう。悪党が「俺たちを前期悪党と呼んでくれ」といったわけではありません。悪党と一言で言っても、その様相によって前期と後期に分けることができるのです。

前期悪党の最初の特徴は「異類異形」です。この時代の一般男子ならば必ず頭につけるべき烏帽子を着けず、柿色の帷子を着て、女物の笠をかぶっている者もいました。

この時代、服装は身分標識でしたので、異類異形とは身分による社会秩序から離れていることを意味していました。特に柿色は、最下層というべき身分の標識ともいえる色であり、悪党は最下層の民に近い存在であり、また自らそう主張していたようです。まさしく、社会学のいう「マージナル・マン」だったわけです。マージナル・マンは古今東西問わず世を動かす人たちです。為政者だけが世を動かすわけではないのです。

彼らの所持する武器については、鎧・腹巻などはつけておらず、太刀と竹長柄(竹の棒)やサイホウ杖(撮棒、硬い木の棒)等の軽武装でした。竹の籠を背負っていたようで、盗品を入れるために使ったのでしょうか?

また、人と顔を合わせないようにしていたそうです。自らはとても目立つ「奇妙な」格好をしておきながら、顔は知られたくないという矛盾が興味深いです。

彼らは10人~20人の小集団を形成し、乱暴・海賊・寄取(債権がある等の理由をつけて物品を奪う行為)・強盗・山賊・追落(路地で物品を奪う行為)などの犯罪行為を行っています。

もはや前期悪党は犯罪者集団と言っても過言ではないでしょう。これが最初の悪党の姿なのです。

しかしながら、彼らが城に籠もっているというのはとても重要な点です。初期の悪党が単なる犯罪者集団ではない根拠となるのです。

というのは、城を構えることは自らの正当性を主張する行為だからです。悪党は単なる犯罪者集団ではなくて、体制側に対して彼らなりの正当性を主張していたのです。

悪党禁制

とは言え、たとえ彼らが彼らなりの正当性をもつ行為であったとしても、体制や秩序を維持する側である朝廷・幕府にとってみれば、悪党は許されるべき存在ではなかったのは当然と言えば当然です。

幕府は鎌倉時代のはじめから数度にわたり悪党を禁止する法を発布しています。特に安達泰盛の弘安徳政での1284年(弘安七年)の悪党禁制では、悪党の証拠がなくても、その噂がある者については近隣の地頭御家人に取り調べをさせ、噂を聞いている場合には逮捕して六波羅に差し出すことを命じる禁制が制定されました。

【弘安徳政】情けの武将安達泰盛の政治

さらに、次の平頼綱政権期においても悪党禁制は強化され、悪党を所領内に居住させた御家人については、所領の三分の一を没収するという厳しい内容でした。

【平禅門の乱】安達泰盛を滅ぼした得宗被官平頼綱の政治

しかし実際は、地域の地頭御家人に悪党取締りの責任を押しつけるだけでは、悪党を禁圧することは不可能だったのです。

特に、幕府の警察権が及ばない西国の本所一円地(地頭職が設置されていない荘園:貴族や寺社の荘園)の悪党は、野放し状態だったのです。

そこで幕府(北条貞時)と朝廷(伏見天皇)は、協力しながら徳政の名のもとで悪党を逮捕する制度を作り出しました。

朝廷は悪党を「違勅の狼藉」、つまり天皇の命に背いた国家的犯罪者と認定し、六波羅探題に悪党の逮捕を依頼するとともに、その名を示した「悪党交名」という名簿を提出します。

依頼を受けた六波羅は、武装した使節を派遣して悪党を逮捕するという仕組みだったのです。

この仕組みによって、悪党は六波羅探題という強力な軍事力と直接戦わざるを得なくなったのです。このことによって、悪党鎮圧に一時的に効果があったようですが、対処療法にしかすぎません。

「峯相記」では、播磨国で行われた六波羅探題による悪党鎮圧について述べられていますので見ていきましょう。

ちなみに、幕府は朝廷と手を結んだことで、本来関わる必要のなかった本所一円地(地頭職が設置されていない荘園:貴族や寺社の荘園)の悪党と直接的に、しかも強圧的に関わらざるを得なくなっていきます。このことが、後醍醐天皇らの倒幕派に悪党が味方していくことにつながります。

悪党の時期区分・第3段階~元応元年(1319年)

元応元年の春、山陽・南海の12か国に悪党鎮圧のための使者が派遣された。播磨国では飯尾為頼・渋谷三郎左衛門尉・糟屋次郎左衛門尉・守護代周東入道が使者となり、播磨国の地頭・御家人に起請文を出させて命令し、所々の城郭、悪党の在所20カ所を焼き払い、現行犯の悪党は討ち取った。それ以外の悪党51人については使節上洛の前に名を明らかにして、国中の地頭・御家人に必ず捕まえるように命じたが、その実行はされなかった。唯一効果があったのが、名前の通った者2人を使者に定め、現地の地頭・御家人グループを編成して明石と投石(なげいし)の2ヵ所を警固させたことで、2・3年の間は悪党の活動は静まった。

六波羅は、西国12か国に使節を派遣し、国内の地頭御家人を動員して悪党鎮圧作戦を実行しました。

この悪党鎮圧作戦については他の史料にも「文保三年悪党対治御使下向之時」とありますので、文保三年・元応元年(1319年)に実際に行われたこと推定されています。内管領長崎高資の権勢が北条得宗高時を上回っていたころの話です。

播磨国における対悪党掃討作戦は、彼らの拠点の20カ所を焼き払うという厳しいものでした。それでも播磨国の悪党をすべて逮捕することはできなかったのです。

使節は上洛前に、悪党51人を指名手配し、地頭・御家人に逮捕を命じたのですが実効性はなかったようで、すでに播磨国中の者の悪党への同意が始まっていたと考えられています。

それでは、そのような幕府の鎮圧対象となった悪党はどのようなものだったのか再び「峯相記」を見てみましょう。

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