悪党・鎌倉時代のもう一人の主役

鎌倉時代
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悪党の時期区分・第4段階~正中・嘉暦の頃(1324~1329)

悪党鎮圧の責任者であった大仏流北条維貞が鎌倉に下ると、悪党の活動はますます活発になった。正中・嘉暦(1324~1329)のころになると、彼らの振る舞いははるかに目立ってきて、世間の人々を驚かすようになってきた。よい馬に乗り50騎100騎と続き、馬具・唐櫃(からびつ)・弓箭・兵具などは金銀を散りばめ、鎧・腹巻は照り輝くばかりである。

この段階の悪党を「後期悪党」と呼ぶことにしましょう。これも、悪党が「俺たちを後期悪党と呼んでくれ」と言ったわけではありません。

後期悪党は、前期悪党の姿とまったく異なっています。特に変化しているのは武装です。前期悪党は竹長柄や撮棒などという武器と言えないようなもので武装していましたが、後期悪党は弓箭を帯び鎧・腹巻を着けた立派な騎馬武者の姿に変化しています。さらに彼らは馬に乗り、戦闘単位も50騎・100騎という一つの集団としての性格を持つようになっています。しかも馬具・兵具に金銀をちりばめるという財力をもっているのです。

前期悪党が現れたころの20・30年前と比較して、悪党はなぜこのような変化を遂げたのでしょうか。犯罪者集団が武士化したのでしょうか。もちろん、それもあるでしょう。海賊・山賊行為によって財力を獲得した悪党が、馬や武器を手に入れて武士のような格好になることも、当然考えることができます。

同時に、悪党と認定されている集団そのものが変わったということも考えられます。つまり、御家人そのものが悪党化するということです。御家人は「正規の武士」ですから、彼らが悪党化すれば騎馬武者になるのも至極当然です。

楠木氏や赤松氏が元は御家人だったという説も、御家人の悪党化という文脈に沿えば説得力があるのではないでしょうか。

もうひとつが、御家人・非御家人に関わらず、地域の有力な人物が悪党化している可能性もあります。「峯相記」には、文永年間に播磨国に「五カ所の綺麗ノ念仏堂」が成立したことを記しています。これらの念仏堂は当初浄土宗寺院として建立されましたが、どれも費用をかまわず金銀を使い、華麗を尽くした建物だったといいます。

その建設費の出資者である「檀越(だんおつ)」は、すべて「当国富貴ノ輩(播磨国の金持ち)」で、その一人の「南三郎入道」は、播磨国矢野荘(兵庫県相生市)に乱入する悪党浦上誓願の一族であったと考えられています。このような播磨国内の有力者として財力もあり、念仏堂の「檀越」として地域に幅広く受け入れられていた人々が悪党化していくのです。地域に幅広く受け入れられた人々を犯罪者集団として認定することはできませんよね。

悪党の城

彼ら後期悪党の行動を見ていきましょう。

彼らは論所でもないのに、本の持ち主の方人(味方)だと称して、所々を押領している。党を結んで契約し、与力や、契約を号する輩が、あるいは城を落とし、城を構えている。軍陣作法に従って塀を作り、矢倉を構え、ハシリを使い、飛礫を投げ、物見のための櫓をたて、屏風楯・箱楯を並べ、皮をしくなどの様々な用意をしている。このような悪党たちが、但馬・丹波・因幡・伯耆といった周辺の国々からやってくる。悪党の隠語で、あらかじめ依頼を受けてお金をもらうのは「山コシ」といい、あとから頼まれたものは「契約」といい、人目をはばかる様子はいっこうになかった。

前期悪党は、強盗や山賊・海賊などの「コソ泥」的犯罪を主に行っていましたが、後期悪党は押領が主なものとなっています。押領(おうりょう)とは、武力によって相手を排除し、土地を占有(現実的支配)することをいいます。

中世では、このように武力によって実質的に土地支配を行うことを「当知行」と称しました。悪党は当知行を目的とする集団となっていたのです。

この悪党の押領は、悪党本人が訴訟で争っていない関係のない土地について、なんらかの理由で土地を手放してしまった者たちの味方と称して、現在の土地所有者を武力で排除し、その土地を当知行したのです。

悪党が出現する以前には、播磨国内の上岡・高家荘(現兵庫県宍粟市)等に土地をめぐる争いがあっても平和的に解決されていましたが、悪党がこの争いに武力介入することで、争いが武力紛争となっていったのです。

悪党が当知行のために構えられたものが城なのです。ですから城は、当知行宣言としての意味を持っていたのです。

簡単に言えば、他人の土地を巡るトラブルに乗じて、実力で土地を奪い取り、「俺たちの土地だ!」と主張するために城を作ったというわけです。

ですから、当知行のシンボルと言える城を落とすことが、相手の当知行を否定することになるわけで、鎌倉後期になると地域の紛争は、城を巡る攻防戦となっていきます。

鎌倉時代の武士の館は平地の方形館でした。しかし、悪党の城は塀や櫓を持つ山城です。武士と悪党は居館に関しても根本的に性格が異なるのです。

悪党の城で使用された武器としてハシリと飛礫(つぶて)がありました。ハシリとは走木であり、山城の上から大木を下の敵に向かい転がり落とすというものです。また飛礫は、下から攻め上がる敵に石を投げつけるものです。

千早赤坂城に籠もる楠木勢に対して、鎌倉勢が山を駆け上り、楠木勢が用いる武器によって鎌倉勢が苦戦を強いられるシーンをご覧になったことがありますでしょうか。あんな感じです。

児玉幸多監修『少年少女日本の歴史8~南朝と北朝』小学館

 

このように、後期悪党は武力によって土地支配の正当性を主張する集団となっていました。正当性とは相対的なものです。かつて、鎌倉幕府は武家政権の正当性を主張しましたが、それは武家政権を認めようとしない朝廷という相手がいたからです。

人と顔を合わせないようにしていた前期悪党と違って、後期悪党は人目をはばからなくなっています。地域は幕府の正当性を受け入れず、悪党の正当性を受け入れつつあったのです。

悪党の時期区分・第5段階~元弘の乱まで(1330~)

武士ならば「腹切カ党」、つまり恥を考えて行動する存在だけれども、悪党は、合戦の際にはそんなことは問題外だと豪語し、警固の守護も彼らの権威を恐れ、追罰の武士が逆にはばかっているような始末である。よって、追捕・狼藉・苅田・苅畠・討入・奪取などし放題で、結局残る荘園はあると思えないありさまである。これは、狼や虎と肩を並べ、龍や蛇と座を同じくしているようなものだ。幕府は裁決しているが、その実現に当たって、賄賂をもらったり悪党を恐れたりして、幕府の決定を実行しなくても処分されない。催促の御教書がばらまかれているだけである。播磨国中の者たちは、悪党に同意するようになってしまい、正直で真面目な人々は耳を押さえ目をふさいで日をおくるうちに、はたして元弘の大事件が勃発した。彼らの所行は、幕府政治(武家政道)の失敗によるのである。

後期悪党は、前期悪党のように人目を避けるようなことはなくなりました。むしろ、守護や悪党追罰の命令を受けた武士の方が悪党を恐れるようになったのです。

追捕・狼藉・苅田・苅畠・討入・奪取は悪党が自らを正当化する具体的行動です。

追捕は追捕狼藉ともいわれ、家の中に入り、物品を奪取する行為です。しかし、単なる強盗とは異なり、年貢未進などの債務があるとして米・銭などを奪い取ることをいいます。この行動も自らの正統性を主張する行動なのです。

また、苅田・苅畠は、紛争地の田畑の作物を相手が刈り取る以前に、強制的に刈り取ってしまう行為です。これもその土地が自領であることを主張するために行う行為で、もし刈り取りをしなければ、相手の支配を認めてしまうことになるのです。

このような後期悪党の行為は、単純な犯罪とちがって、荘園の当知行(実質的に土地支配を行うこと)の正当性を主張する行為なのです。中世では、このように武力で自らの正当性を主張する行為は普通に行われ、このような行為を自力救済といいます。中世社会は、自力救済が認められた社会で、悪党は自力救済を行う集団なのである。

現代社会では自力救済は認められていません。裁判などの司法手続きを踏んで権利回復をしましょう。

悪党が荘園に城郭を構え、年貢を奪い、作物を刈り取るという行動は、荘園領主から見れば違法ですが、悪党から見れば合法的な行為なのです。後期悪党は、荘園領主を否定し、地域の中で荘園の支配を現実に行う集団となっていたのです。

このような状況が国中に広がってしまえば、「相峯記」のいう残る荘園がなくなってしまったというのも理解できますね。

幕府は強圧策で悪党を鎮圧しようしますが、それを実行する守護は悪党を恐れ、賄賂をもらう始末です。しかも、幕府はそれをとがめるどころか放置したままです。

当時の幕府の実力者は、将軍でもなく、執権でも得宗でもない。北条でも足利でもなく、長崎円喜・高資父子を筆頭とした御内人でだったのです。人心は鎌倉幕府から離れていきました。

悪党の取り締まりに無策となった幕府の滅亡は定まったのも同然だったのです。

参考文献

小林一岳『日本中世の歴史』吉川弘文館。

播磨学研究所編『赤松一族八人の素顔』神戸新聞総合出版センター。

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