最後の得宗・北条高時の生涯

鎌倉時代
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北条高時。鎌倉幕府14代執権で、最後の得宗。一般的に鎌倉幕府が滅亡したのは北条高時が悪かったからと言われていますが、北条高時は本当に悪かったのか、今回は北条高時に心を馳せたいと思います。

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誕生から執権就任まで

1303年(嘉元元年)12月2日。北条高時は、父北条貞時と母大室泰宗の娘の間に生まれました。幼名は成寿丸。1309年(延慶二年)1月21日、7歳で元服し高時と名乗ります。1311年(応長元年)1月17日に9歳で子侍奉行となり、6月23日左馬権頭に補任され、同日叙されます。

同年10月26日、父貞時が死去します。高時は北条得宗家を9歳という若年で継ぐことになったのです。執権には大仏(おさらぎ)流北条宗宣、連署には北条煕時が就任しており、内管領長崎高綱(のちの入道円喜)、高時正室の父安達時顕(霜月騒動で滅んだ安達一族の生き残り)が高時を補佐して幕政を運営する体制がとられていました。

貞時の守護国である駿河国・伊豆国・武蔵国・若狭国・上野国・土佐国は高時に相続されています。1315年(正和四年)7月12日に執権職は北条煕時から普音寺流北条基時へ移りました。

14歳になった高時は、1316年(正和五年)1月5日に従五位上に叙され、同月13日但馬権守を兼任。そして、7月10日に執権となります。これは父貞時と同じ年齢での執権就任で、貞時の先例にのっとって行われたと考えられます。

高時の虚弱体質と得宗の形骸化

「保暦間記」に「頗亡気の体にて、将軍家の執権も難叶かりけり」と記されているように、高時は虚弱体質だったことから政治に専念できる状況ではなかったようです。

したがって、高時政権は、内管領長崎高綱と外戚安達時顕を中心とする得宗被官が、父貞時の先例を踏襲するという方針で高時を補佐していきます。御内人たちの合意が意思決定の前提となり、幕府内には抵抗する勢力もなくなっていることから、この体制は安定的と言えます。しかし、重要な問題に関して対応できなくなっていました。鎌倉時代後期は元寇・飢饉・悪党など、幕府が対応すべき課題は増えていたにも関わらずです。

高時の執権就前後、京都では皇位継承をめぐって持明院統と大覚寺統の対立が激化していて、幕府は、文保元年4月摂津親鑑を上洛させて、両統迭立の順序にしたがって譲位するように朝廷に建議しています(文保の和談)。

この結果、1318年(文保二年)3月に尊治親王(後醍醐天皇)の即位が実現し、後宇多上皇の院政、後二条天皇の第1皇子邦良親王の立太子が決まります。

1321年(元亨元年)からは院政が停止され、後醍醐天皇による申請が始まりました。

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この間、長崎高綱は出家して長崎入道円喜と号し、内管領にはその子高資が就任します。19歳になった高時は、元亨二年)2月8日評定始め、同月12日に引付・評定の出仕始めが行われます。父貞時の出仕とほぼ同じ年齢ですから、高時は先例に従って出仕したといえます。時頼や時宗のように、実力を高めて政治に参加するというよりも、形式的に参加していくことに重きが置かれるようになっているのです。得宗の地位が形骸化したといえるでしょう。

内管領長崎高資の失態

少し時はさかのぼって、1318年(文保二年)頃から、奥州蝦夷の管領安東季久とその一族安東季長との間で所領をめぐる争いが起きます。内管領長崎高資はこの両者から賄賂をとって両方に適当に下知をくだし、結果さらに事態を混乱させてしまいました。

1326年(嘉暦元年)、手に負えなくなった幕府はついに追討軍を派遣する羽目になります。しかし、戦乱はなかなかおさまらず再三にわたっての出兵の末、1328年(嘉暦三年)にようやく和談が成立します。

奥州の騒動を鎮圧するのに10年もの歳月を費やした幕府の権威は大いに失墜することになり、さらに後醍醐天皇を中心とする倒幕運動によって幕府は急速に瓦解の道を進むことになります。

正中の変

1324年(正中元年)9月、正中の変が起こります。後醍醐天皇の近臣日野資朝・俊基らが中心となって、無礼講という集会を通じて美濃国の土岐氏・多治見氏らの武士と六波羅探題の襲撃を企てる事件が起きました。六波羅探題によって未然に防がれましたが、後醍醐天皇は幕府の信用のある万里小路宣房を鎌倉に派遣して、近臣が企てたことと弁明します。これに対し幕府は、天皇の関与について追及することなく、首謀者の日野資朝を佐渡に配流とし、穏便に処分しています。

正中の変・後醍醐天皇、倒幕計画を立てるも隙だらけで失敗
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得宗高時の反撃?

1326年(嘉暦元年)3月13日、24歳の高時は病気を理由に出家します。法名は崇鑑。この頃の高時には子がいなかったため、弟の泰家が執権に就任すると見られていましたが、連署の金沢流北条貞顕が就任したのでした。この人事の背景には内管領長崎高資の意向が反映していたようです。しかし、金沢貞顕は就任後1か月で真剣を辞職し、4月24日には執権に赤橋流北条守時(足利尊氏正室登子の兄)が、連署には大仏流北条維貞が就任しました。この人事も長崎高資の意向と言われており、幕政の実権は高資が握り、高時は田楽・闘犬・遊宴にふけることが多くなったといいます。

そんな高時ですが、得宗として幕政を北条氏の手に戻そうと試みたようです。1330年(元徳二年)の秋、長崎高頼以下の者に命じて高資を討とうとしたのです。

しかし、事前に発覚したため、高時は関知せずとして長崎高頼らを配流に処しています。

【嘉暦騒動・元徳騒動】傀儡化した得宗北条高時と鎌倉幕府の限界
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鎌倉幕府滅亡

1331年(元弘元年)4月、後醍醐天皇の2度目の倒幕計画が露見すると、幕府は首謀者の日野俊基・文観・円観らを捕らえて鎌倉に送り、俊基は斬首、他の者は流罪に処しました。しかし、8月24日に後醍醐天皇は京都を脱出し、26日には笠置山で挙兵し籠もります。これに呼応して楠木正成が赤坂城で挙兵。9月2日、幕府は大仏流北条貞直・金沢流北条貞冬・足利高氏らを大将軍とする大軍を上洛させます。北条・足利氏を上洛軍の大将軍とするのは、承久の乱を先例とした配置です。

幕府軍の圧倒的兵力により、9月中には赤坂城と笠置山が陥落し、吉野に逃れようとした後醍醐天皇は捕らえられ六波羅探題に送られます。この間、幕府は持明院統の光厳天皇を即位させています。1332年(元弘二年)3月、後鳥羽上皇の先例に従って、後醍醐天皇は隠岐に配流となりました。

元弘の変・後醍醐天皇の倒幕と隠岐配流
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しかし、1332年11月には後醍醐天皇の子護良親王が吉野で挙兵し、千早城で楠木正成が挙兵。1333年1月、赤松則村(入道円心)も挙兵します。

これに対して、幕府は再び大軍を派遣し、大将軍は名越流北条高家と足利高氏でした。ところが、4月27日に名越高家は後醍醐方の千草忠顕らと山城国久我畷の戦いで討死します。そして、5月7日には足利高氏は六波羅探題を攻撃し六波羅軍は壊滅します。

【鎌倉幕府滅亡】足利尊氏、六波羅探題を攻め滅ぼす
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太平記によれば、東勝寺で高時とともに自害した者は870余人と言われています。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺に祀られています。宝戒寺は、後醍醐天皇の勅命をうけた足利尊氏によって、北条一族の霊を慰めるために北条得宗家敷跡に建立されたと伝わります。

北条高時は、内管領長崎高資ら御内人を統御する能力がなかったという点で非難されるべきかもしれませんが、早くから父貞時を失い、得宗とは何かを知ることもできませんでした。幕府の先例主義と変化する時代の間にあって、形だけ得宗として祀り上げられた高時に同情してしまいます。

 

 

 

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