第二次観応の擾乱・尊氏対直義~正平の一統と直義の死

足利尊氏の時代
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第一次観応の擾乱によって、高師直・師泰兄弟以下の高一族とその被官は誅殺され師直派は敗北。直義派は、尊氏・師直派に圧倒的な勝利をおさめました。

 

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尊氏・直義和睦と義詮

1351年(観応二年)2月27日に尊氏が京都に戻り、翌28日に直義が京都に戻りました。

3月2日、両者は直接会談します。尊氏は直義に会うとまず、今度の戦いで尊氏方に属した武士の所領安堵と恩賞を先にせよと切り出しました。尊氏からすれば、自分は将軍である以上、武士の賞罰権は自分にあり、当然の要求でした。

しかし、一方の直義は、敵方(直義・師直方)に属する武士の所領を闕所(没収地)と称して、味方に与えてきたので、尊氏の要求をのめばこの約束が空手形になる可能性がありました。さらに、味方の本領まで尊氏に奪われることになりかねない話でした。

結局、折衝の末、

  1. 終始尊氏に従って忠勤を尽くした武士42人に恩賞を行うこと。
  2. その他両軍の賞罰はその後に行うこと。

と、決まりました。

会談が始まる前の尊氏はひどく機嫌が悪かったそうですが、これが決まると打って変わって喜んだそうです。

次いで、尊氏は師直一族を殺害した上杉重季の処刑を主張しましたが、直義はこれをなだめすかして流罪と決まりました。

こうして尊氏と直義の間に和睦が成立します。

和睦が成立した頃、父尊氏に従って行動していた義詮は丹波に陣を張ったまま一歩も動かずにいました。尊氏の再三の帰京の催促にも関わらず、頑なに丹波に陣を張っていたのです。義詮が京都に戻ったのは3月10日。

義詮は叔父直義をどうしても許せなかったようで、義詮が信頼する師直が直義によって命を落としたことや、直義が再び幕政を主導する立場に返り咲いたことが原因と考えられています。

 

返り咲く直義派

尊氏と直義の和睦後、直義と義詮はともに協力しながら幕政を運営することになりましたが、実権は直義が掌握し、直義の意向が色濃く反映されました。

幕府内の人事は直義派によって占められます。重要ポストの引付頭人には、尊氏派だった斯波家兼・佐々木道誉・仁木義氏は罷免されて、石橋和義・畠山国清・桃井直常・石塔頼房・細川顕氏らの直義派の有力武将によって独占されました。ただし、彼らはいわゆる武闘派で、引付方などの仕事は未経験で向いていなかったようです。また、九州探題の一色範氏は罷免され、直冬が鎮西探題に任じられます。

守護にいたっては、その任命権は将軍尊氏にありましたが、直義派の武将が、尊氏派にかわって守護に任命されています。出雲は佐々木道誉から山名時氏に、備後は高師泰から上杉重季、伊勢は仁木義長から石塔頼房、新たに守護になったのは、信濃の諏訪直頼や丹後・丹波の上野頼兼という具合です。

第一次観応の擾乱のとき、多くの守護が直義派に寝返ったので、守護たちは守護職を安堵されており大きな変化はありませんが、最後まで尊氏・師直派に属した守護は罷免されるケースがあったようです。

直義の南朝講和交渉

直義は、南朝・北朝の講和を引き続き進めます。しかし、両者の言い分は折り合うことはありませんでした。南朝は自らの大覚寺統の正統を主張して、幕府は政権を吉野に返すべきと主張します。

幕府は、武家支配のもとで両統迭立によって皇位の継承を主張します。両者の主張は平行線をたどり、5カ月にわたった南朝との講和交渉は決裂しました。

直義対義詮

直義の勢力が増すとともに、幕府内では再び分裂の兆候が現れてきた。それは、直義と義詮の対立という形をとるようになってきます。

1351年(観応二年)6月になると、政務を独占する直義に対して、義詮は「御前沙汰」という、自らが所務沙汰を親裁する機関を設置して直義の権限を奪う動きにでます。義詮は幕府の政務に深く関与し、直義から自立しつつあったのです。

新たな二頭政治は早くも崩れさりましたが、ここでも義詮の背後に尊氏がありました。師直の背後に尊氏がいたのと同様です。

直義が実権を握って半年もたたない1351年(観応二年)7月8日、直義は引付方を停止し、尊氏に政務の返上を申し入れます。

これを受けて、尊氏は義詮が政務を行うことと決定しますが、尊氏は思い直して直義を政務に復帰させます。7月22日、尊氏・直義・義詮の三人がそろって面会し、制約の告文を作成しました。

その間、幕府内に新たな緊張と不安が広がっていました。

7月10日ごろ、赤松則祐が護良親王の遺児興良親王を奉じて挙兵します。その後、佐々木(京極)道誉・細川頼春・仁木頼長・赤松貞範らが京都からそれぞれの領国へ引き上げる事件が起こります。

そして、佐々木道誉は南朝に組し、後村上天皇から尊氏・直義・義詮追討の綸旨を下されます。

7月28日に尊氏が佐々木道誉討伐のために近江に出陣、翌29日に義詮が赤松則祐討伐のために播磨に出陣しました。

これは、京都を一時直義に明け渡し、尊氏と義詮の東西から挟み撃ちにしようとする策略だったと言われています。それを知った直義は、7月30日に京都を逃れて北陸に向かいました。北陸は、若狭に山名時氏、越前に斯波高経、越中に桃井直常、越後に上杉憲顕の直義派が守護を占めていました。直義が北陸に逃れたのはそういう理由があったからです。

尊氏・義詮は京都に戻ると細川顕氏を使者に立てて、越前金ヶ崎城にいる直義に対して政務復帰を依頼して和睦を求めます。使者の細川顕氏は、第一次観応の擾乱のときは直義派の最右翼にいましたが、この時は尊氏・義詮派に属していました。

直義は断固として和睦を拒否し、ここから第二次観応の擾乱が始まります。

第二次観応の擾乱

正平の一統

8月18日、尊氏・義詮軍は2百騎で近江へ出陣します。しかし、近江に入ると、南朝に寝返ったはずの佐々木道誉・秀綱父子が加わり、続けて伊賀・伊勢の仁木義長、美濃の土岐頼康が加わりました。

9月に入って、北陸勢を糾合した直義派と尊氏・義詮派が激突し、近江で激しい戦闘が繰り広げられます。

翌10月になると、尊氏と直義は和睦をしましたが、すぐに破綻します。直義は北陸に戻って、信濃から上野を経て鎌倉に向かいました。鎌倉を中心として勢力を拡大させ、尊氏との決戦に挑もうとしたのでした。

この間、越前守護の斯波高経と紀伊・河内・和泉の守護畠山国清が尊氏・義詮派に寝返ります。

直義の鎌倉入りを知った尊氏は関東出陣を決意しますが、畿内の南朝勢力の動向が問題となります。そこで、尊氏は南朝との講和を模索しました。かつて、第一次観応の擾乱のときに直義がとった戦略を尊氏が採用したのです。

尊氏の南朝工作は成功し、10月には直義追討の綸旨が後村上天皇から尊氏に下されました。その結果、11月には北朝の崇光天皇は廃され、「観応」から南朝の年号である「正平」が用いられることになりました。この南朝と室町幕府の講和を「正平の一統」と呼びます。

直義の死

1351年(観応二年)11月4日、南朝との講和を成し遂げ、畿内に憂いがなくなった尊氏は、京都を義詮に任せて出陣します。このとき、仁木頼長・仁木義長・畠山国清・千葉氏胤・武田信武・二階堂行珍らが尊氏に供奉していました。千葉氏胤・武田信武も尊氏に寝返っていたのです。

16年前、中先代の乱で窮地に陥った直義を救うべく関東に下向した尊氏は、今回は直義討伐のために下向することになったのでした。

 

 

11月26日、尊氏軍は駿河薩埵山(静岡県静岡市)に到着し、ここに籠もります。このとき、駿河守護の今川範国と貞世(了俊)が加わります。範国も尊氏に寝返ったのでした。直義は、自身は伊豆国府にいながら、薩埵山の尊氏軍を包囲します。

12月15日、京都の義詮の意向を受けた下野の宇都宮氏が尊氏方として挙兵し、同19日に上杉憲顕軍を撃破して直義の後方をかく乱しました。29日には相模国足柄山で直義軍を駆逐します。

薩埵山を包囲していた直義軍は、これを聞いて崩壊。尊氏軍の仁木義長が伊豆国府まで押し寄せてきたため、直義は伊豆国北条(執権北条氏発祥の地)に撤退します。

1352年(正平七年)1月1日、尊氏軍は伊豆国府で宇都宮・小笠原勢と合流。直義はさらに伊豆国走湯山に退き、ここで尊氏からの降伏勧告を受け入れました。

1月5日、尊氏と直義は鎌倉に入ります。

直義は鎌倉浄妙寺内の延福寺に幽閉され、翌2月26日に急死します。『太平記』では毒殺されたことになっていますが、真相は明らかではありません。

直義が没した2月26日は、高師直・師泰以下高一族と被官が直義派によって斬殺された日と同日だったことから、尊氏によって毒殺された噂が出ても不思議ではありません。

 

むすび

初期室町幕府において激しく対立した師直・直義は滅亡し、ここに室町幕府は成立期を終えます。尊氏-義詮、義詮-義満による新しい段階に入っていきますが、南北朝の内乱はまだその前半が終わったばかりで、さらに激しい戦乱に直面していくことになるのでした。

 

参考文献

亀田俊和『観応の擾乱』中公新書。

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

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