正平の一統の破綻と南朝の反撃~八幡の戦いと武蔵野合戦

足利尊氏の時代
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1351年(観応二年)11月3日、第二次観応の擾乱において、尊氏は鎌倉に下向した直義を討つべく、畿内の後顧の憂いを断つために南朝と講和しました。この講和は「正平の一統」と呼ばれ、皇統を大覚寺統(南朝)に統一するというものでした。

直義が尊氏に降伏して、尊氏・直義兄弟が鎌倉に入ってしばらくたった1352年(正平七年)2月3日、南朝は後村上天皇が京都に戻るために石清水八幡宮へ赴く旨を、京都の義詮に伝えてきます。これは諸国の南朝軍が一斉に蜂起する前触れとなりました。

 

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南朝軍の京都進撃

直義が急死した2月26日、後村上天皇は皇居の賀名生から河内東条(大阪府富田林市)に進み、28日には住吉神社に行宮(あんぐう:行幸時の宮殿)を定めます。

翌閏2月6日、南朝は宗良親王を征夷大将軍に任じます。尊氏は征夷大将軍を罷免されたことを意味していました。同15日、後村上天皇は天王寺に移り、19日に石清水八幡宮に入ります。

この間、義詮は使者を後村上天皇のもとに派遣していて、18日夕刻に帰京した使者によれば、義詮の提示した条件を南朝はほぼ承諾している様子だが、確答はないと報告しています。この条件については、新補地頭職の管轄に関するものだったと言われていますが、南朝にとってこの交渉は挙兵までの時間稼ぎだったといえます。

同閏2月20日、楠木正儀と北畠顕能を主力とする南朝軍が京都を攻撃します。細川顕氏以下の幕府軍がこれを迎え撃ちますが、細川頼春が戦死。わずか一日の戦闘で義詮は近江へ逃れました。

このとき、義詮は北朝側(このときは北朝は廃されていたので旧北朝というべきかもしれません)の光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子された直仁親王を京都に置き去っていました。

南朝軍は持明院の三上皇と直仁親王を石清水八幡宮に連れ去り、さらに楠木の本拠地河内東条を経て、南朝の本拠地賀名生へ送られました。正平の一統で、北朝側の三種の神器は南朝側に渡っていたので、ここに北朝は消滅したことになります。室町幕府の存続論理が崩れたのでした。

この日、北畠親房は17年ぶりに京都に戻り、後村上天皇から准后(じゅごう)の待遇を与えられます。准后とは、三宮(太皇太后、皇太后、皇后)に準ずるという意味で、准后になったのは摂関家と平清盛だけでした。

八幡の戦い

23日、義詮は「正平」の年号を破棄して「観応」に戻します。義詮は「宮方合体御違変(南朝が和議を破った)」として、諸国の武士に動員令を発します。

義詮は近江四十九院(滋賀県豊郷町)辺りに陣していましたが、2週間後には美濃の土岐頼康、近江の佐々木道誉の軍勢が合流し、3月9日に四十九院を出発し京都に攻め上ります。西からは阿波の細川清氏、播磨の赤松則祐が京都に攻め上がりました。

3月15日、南朝軍は石清水八幡宮のある八幡に退き、義詮は1カ月足らずで京都を奪還。

同21日、義詮は本陣を東寺に置き、石清水八幡宮の南朝軍攻撃を開始します。幕府軍の総大将は細川顕氏で、細川清氏・山名時氏・山名師義(時氏嫡男)・赤松則祐・土岐頼康らが攻撃に参加します。石清水八幡宮は難攻の要塞で、攻めあぐんだ幕府軍は石清水八幡宮に火を放つなど、高師直が行った作戦を採用します。

南朝軍は幕府軍の攻撃によく耐えましたが、南朝軍を悩ましたのは兵粮の欠乏でした。観応の擾乱を含む3年越しの戦乱で京都周辺は飢饉状態にあり、京都周辺での兵粮徴発には農民の強い抵抗がありました。奈良の興福寺へ勅使を立てて、兵粮の供出と僧兵の増援を申し入れても、僧兵からは良い返事を得られず、20貫文程度の銭が供出されただけというあり様でした。もっとも、興福寺は幕府とつながっていたので、南朝軍を相手しなかっただけと言えますが・・・。

南朝軍は兵粮の欠乏で兵の逃亡が相次ぎ、ついに5月11日の幕府軍による総攻撃で石清水八幡宮は陥落、後村上天皇以下の南朝軍は賀名生に引き上げました。

武蔵野合戦

京都周辺で、南朝軍と義詮率いる幕府軍が衝突するより先に、東国では南朝軍と尊氏軍の衝突が始まりました。

1352年(正平七年)閏2月15日、南朝の新田義宗・義興(新田義貞の子)・脇屋義治(新田義貞の甥)らが上野で挙兵します。新田軍はたちまち上野を平定し、武蔵に侵入しました。

その頃、信濃にいた宗良親王は征夷大将軍に任ぜられて挙兵し、諏訪氏を率いて碓氷峠まで進出。奥州の北畠顕信(親房次男)も陸奥白河に進軍してきました。

17日、尊氏は武蔵狩野川(神奈川)に逃れて、翌18日に新田軍が鎌倉を占領します。義詮が京都から逃れた2日前のことでした。

それから10日間、武蔵の各地で両軍の激戦が行われます。

そして28日。尊氏軍は宗良親王・新田義宗らと武蔵小手指原・入間河原・高麗原で激突します。小手指原は畠山国清ら、尊氏・仁木頼章らは入間河原・高麗原に出陣しました。

尊氏は、自害を覚悟しなければならないほど一時は追い込まれますが、新田軍が消耗し、仁木兄弟が新手で襲い掛かったので、尊氏軍が勝利します。

同日、新田義興が鎌倉に攻め入り、南宗継・南宗直・石塔義基らが防戦するも敗退。幕府軍は鎌倉公方足利基氏を奉じて石浜に在陣していた尊氏のもとへ逃れます。

日は明らかでありませんが、尊氏軍と義宗軍は武蔵国の笛吹峠で決戦を行います。尊氏軍には関東の外様武士が馳せ参じ、新田軍は宗良親王を大将として、旧直義派の上杉憲顕の軍勢が多数味方します。

激戦の結果、尊氏軍が勝利し、憲顕は信濃へ、義宗は越後へ落ちていきました。

この武蔵一帯での幕府軍と南朝軍の戦いを「武蔵野合戦」とよびます。

3月12日、尊氏は鎌倉に戻ります。尊氏もこの日以来、「正平」から「観応」に年号を戻しています。義詮が京都を奪還する3日前のことでした。

南朝側は、尊氏と直義の対立という幕府勢力の分裂による弱体化を逃さずに、全国で一斉蜂起して幕府に乾坤一擲の総攻撃を仕掛けましたが、結局幕府軍の勝利に終わりました。

 

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

亀田俊和『観応の擾乱』中公新書。

 

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