南北朝時代の守護大名の興亡~大内氏と山名氏が幕府に帰参

南北朝時代
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義詮が将軍になってから、幕府内の守護同士が将軍を巻き込んで勢力争いを繰り広げられました。仁木義長・畠山国清・細川清氏といった尊氏時代を支えた有力守護が幕政の中心から没落します。

 

 

しかしながら、尊氏時代から続く幕府の動揺も、ようやく安定に向かい始めます。

1363年(貞治二年)、幕府は周防・長門の大内氏と山陰の山名氏を帰参させることに成功したのです。

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大内弘世の帰参

1363年(貞治二年)春、南朝軍として周防を掌握し、長門の守護厚東義武を圧迫していた大内弘世が幕府側に寝返ります。

大内氏に幕府帰参を誘ったのは誰かは明らかになっていませんが、おそらく、その頃に美作の山名・安芸の足利直冬と戦っていた中国管領の細川頼之、あるいは豊後の大友以外にほとんど北九州に味方のいなかった鎮西探題の斯波氏経(高経の子)ではないか?といわれました。

いずれにしても、義詮は長年にわたって幕府に反抗してきた大内氏を、周防・長門の守護に任命する約束で幕府への帰参をあっさり認めてしまいました。

大内弘世が幕府に帰参して二年後。とある件で弘世が幕府に抗議したとき、「九州の戦乱が静まるまでは、所領については大内の一存に任せる、将軍は一切関与しないという約束でしたから、所領関係については将軍の命令はお受けできません」と述べています。義詮と大内弘世の間に、周防・長門の守護任命の代わりに幕府への帰順の約束があったことは間違いありません。

このように大内氏を周防・長門の守護に任命することは、厚東義武が長門の守護職を失うことになりました。職を失った厚東義武は激怒して南朝に下ります。仁木義長・畠山国清・細川清氏と幕府から没落した武将は南朝に下りましたが、厚東義武もそうだったのです。

厚東氏は長門の厚東郡郡司の子孫で、尊氏の建武政権離脱以来尊氏に従って守護に任命されていました。しかし、長門に侵攻してくる大内氏を防ぐことはできず、結局は大内に長門を奪われてしまいます。

義詮にすれば、長く足利に従ってきたけれども、役に立たない厚東氏よりも、力のある大内氏を幕府に帰順させる方が得策と考えた末の判断だったのでしょう。義詮の厳しい性格が垣間見えます。

大内氏が周防・長門で勢力を広げた背景には、海外貿易によって蓄えた富がありました。弘世は上洛した際に数万貫の銭貨や唐物をばらまき、洛中の人々を喜ばせるなど豪胆な側面もあり、弘世の人柄・経済力に義詮は注目して帰順を認めたのでしょう。

山名時氏の帰参

1363年(貞治二年)秋、大内氏が幕府に帰参すると、山名氏が幕府に帰参します。山名氏は新田氏の一族ですが、同族の岩松氏と同様に早くから尊氏に従ってきました。

1337年(建武四年)には伯耆の守護に任ぜられ、名和氏を中心とする南朝勢力を一掃し、出雲・因幡に進出して山陰にその勢力を伸ばしていました。

観応の擾乱で直義派に加わって以来、尊氏派で出雲守護の佐々木道誉と激しい争いを繰り広げ、中国山地を越えて美作に進出すると守護赤松氏を追い出し、中国管領細川頼之と正面から衝突しました。

さらに、仁木義長・細川清氏の反乱で丹波・丹後の仁木勢力圏が動揺すると、この地域に進出します。丹波は京都の北西にあたる戦略上重要な国です。尊氏が長らく幕府執事仁木頼章を守護に任命したのはそうした理由からですが、山名が進出してきたことで、幕府は直接脅威を受けることになりました。

しかし、山名は幕府に一撃を加えることができない理由がありました。それは、直義の死後、盟主として仰いできた直冬の勢いが減退してきたことでした。

1362年(貞治二年)、足利直冬と山名時氏は合流して、備後府中で細川頼之の軍勢と衝突。しかし、細川軍の攻撃を支え切ることができず、不利を悟った直冬は備後から石見に逃亡。これによって、幕府に下った大内氏が石見に進出してくることは必至な状況になりました。山名時氏は、細川頼之と大内弘世の挟撃をうけることになったのです。

この時、時氏は65歳。「自分は、上野の山名という所からでてきた。世の悲しさ、戦いの難しさも十分に知っている。しかし、子供たちはその苦労を知らず、思うままにふるまっているので、子供の代になったら山名を滅ぼすだろう(超訳)」と常々語っていました。そして、時勢は将軍義詮にあることを見通していたようです。

長年にわたって尊氏・義詮を苦しめてきた山名時氏は、幕府に帰参することを決意します。

義詮は、山名氏が実力で勢力を広げた伯耆・因幡・美作・丹波・丹後の五ヵ国の守護に任命することとひきかえに、大内氏と同様にあっさりと帰参を認めます。時氏が丹波と伯耆、子の師義が丹後、氏冬が因幡、時義が美作の守護となりました。

長年にわたって領国経営を行い、幕府を度々苦しめてきた山名の実力はあなどれないものがありました。義詮は山名を撃滅するよりも、取り込むのが得策と考えたのでしょう。

1364年(貞治三年)3月に時氏の子氏冬と時義が上洛し、8月には時氏自身が美作から上洛しました。山陰に広大な守護国をもつ山名氏の幕政参加はこの時から始まったのです。

しかしながら、この大内氏と山名氏に対する義詮の対応は、幕府で忠勤にはげんだ武士たちの反発を招きます。

「多ク所領ヲ持ント思ハバ只御敵ニコソ成ベカリケレ(多くの所領が欲しければ、ただ敵になればよい)」

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