足利基氏と上杉憲顕~鎌倉公方と関東管領の誕生

南北朝時代
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関東の地は、北畠親房や新田義貞の子息義宗・義興による南朝軍の抵抗もむなしく、足利方の優勢によって平和の時を迎えようとしました。今回は、室町幕府の関東統治機関「鎌倉府」の鎌倉公方と関東管領誕生のいきさつについてお話ししましょう。

>>>東国の南北朝動乱の解説

東国の南北朝動乱
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畠山国清の失脚

1361年(康安元年)9月、京都で幕府執事(管領の前身)細川清氏が失脚しますが、わずか2ヵ月後の11月に関東でも大きな事件が起こりました。

それは、かつて将軍義詮の要請で関東の軍勢を率いて京都に入り、南朝軍との戦いや仁木義長追放で細川清氏と協力して活動していた関東執事畠山国清が、突如鎌倉を追われて伊豆で挙兵し籠城したのでした。

『太平記』によれば、上洛した関東の武士たちは半年以上におよぶ長陣に疲れて、国清に無断で帰国。怒った国清は、所領を没収するなどの強硬策に出たことから、たまりかねた武士たちが団結して公方の基氏に訴え、これを受けて基氏が国清を追放したと伝えています。

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【康安の政変】南北朝時代の守護大名の興亡~細川清氏の没落
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南北朝時代の守護大名の興亡~畠山国清の没落
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鎌倉公方足利基氏と関東執事たち

さて、その足利基氏。彼は1340年(暦応三年)に生まれ、義詮より10歳年下の弟、母は義詮と同じ赤橋登子。登子は、鎌倉幕府最後の執権赤橋守時、最後の鎮西探題赤橋英時の妹でもあります。

足利義詮も基氏も、北条氏の血を引き継いでいるのです。

 

鎌倉幕府最後の執権・赤橋(北条)守時
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1349年(貞和五年)10月、10歳で鎌倉に下向して初代鎌倉公方となりました。下向に至ったいきさつは、京都で直義派に対する師直派のクーデターが勃発し直義が失脚し、直義の後任として、当時鎌倉にいた義詮が選ばれたので、兄に代わって鎌倉に下向したのでした。

「観応の擾乱」前夜~直義の先制攻撃と師直のクーデター
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基氏が鎌倉に入った当初、高師直の従兄弟高師冬と上杉憲顕の両人が関東執事をつとめていました。しかし、京都で直義と師直が対立すると、鎌倉も師直派=師冬と直義派=憲顕の対立となり、憲顕が勝利をおさめます。そして、1350年(観応元年)に師冬は没落し甲斐で自害しました。

1352年(文和二年)、観応の擾乱で直義を破った尊氏が鎌倉に入ると、今度は憲顕は没落し逃走します。翌年、尊氏が帰京したことで基氏がふたたび関東を統括することになります。当時基氏は14歳。

 

第一次観応の擾乱(直義vs尊氏・師直)~直義の南朝降伏と師直の死
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第二次観応の擾乱・尊氏対直義~正平の一統と直義の死
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憲顕の没落後、この若い公方を執事として補佐したのが畠山国清で、基氏は国清とともに入間川(埼玉県狭山市)に出て南朝勢力の掃討をすすめました。新田勢などの南朝の活動は続いていましたが、大した戦乱もなく関東は落ち着きを取り戻していきました。関東に安定をもたらした国清の功績は大きかったのです。

しかし、基氏が成長すると、長く関東執事を担当した国清と溝が生じます。1358年(延文三年)4月、尊氏が京都で没したとき、基氏は19歳になっていました。自らの手で政治を実現していきたいと考えても不思議でもありませんし、そうだったからこそ国清と対立していったのでしょう。

したがって、畠山国清の追放には関東の武士たちの訴えがあったこともあるでしょうが、基氏がそれを理由に自ら率先して追放した可能性は否定できません。

このように、幕府執事細川清氏は義詮によって、関東管領畠山国清は基氏によって幕府を追われます。そして、この追放劇の時期がほぼ同じであることから、やはり義詮と基氏の連携があったのでしょう。

鎌倉を追放された国清は、伊豆で抵抗を続けます。しかし、基氏の命を受けた軍勢を跳ね返すことができず、逃亡して京都の七条道場に落ち延びた後、南朝に下ろうとしましたが認められず、山城と大和の境あたりで野垂れ死にしたといいます。

関東管領上杉憲顕

国清が去って、基氏は名実ともに関東の主君となります。しかし、政治の実務を担う人材は必要で、基氏はかつて関東執事を務めた上杉憲顕を呼び戻しました。

上杉憲顕は、尊氏によって関東執事を追われたあと、上野・越後の守護職も罷免されました。両国の守護職には、宇都宮氏綱が任じられましたが、上杉憲顕とその一党は宇都宮氏に抵抗し活動を続けることになります。

そして、10年の年月が流れて1363年(貞治二年)3月、憲顕は赦免されて鎌倉に呼び戻されることになりました。

当時、憲顕は越後にいましたが、基氏は書状で憲顕に「関東管領のことは、京都からたびたび仰せられているにも関わらず、時期が熟さないからと引き延ばしてきたが、そろそろ大丈夫ではないか?」と打診しています。

憲顕の関東管領任命は将軍義詮の発案で、畠山国清の排斥と上杉憲顕の登用は、京都の将軍義詮と鎌倉の公方基氏によって綿密に連絡を取り合いながら決行されたことをうかがい知ることができます。

宇都宮氏綱は上野・越後の守護職を没収されて、憲顕は両国の守護職にも返り咲きます。

憲顕は越後を発って鎌倉に向かいますが、守護職を奪われた宇都宮が黙っているはずがありません。

宇都宮氏の重臣芳賀高貞を大将とする一隊が憲顕を待ち伏せしていると聞き、基氏自身が鎌倉を出陣して、武蔵岩殿山(埼玉県東松山市)で合戦が起こります。敗れた宇都宮氏は降伏し、上杉憲顕は鎌倉に入りました。

公方を補佐する役目はこれ以降「関東管領」の名で呼ばれることになりますが、初代関東管領に就任した上杉憲顕が公方基氏を支えながら政治を行う体制はこうして築かれたのでした。基氏24歳、憲顕57歳の時でした。

基氏の死

1367年(貞治六年)3月13日。基氏は病に倒れます。上杉憲顕との体制が敷かれてから4年が経っていました。4月下旬には重篤になり、26日没しました。28歳の若さでした。

このとき、基氏の子金王丸(のちの氏満)は9歳でしたが、将軍義詮はこの金王丸が基氏の後を継いで鎌倉公方になることを認め、佐々木道誉が使者として鎌倉に来て、このことを伝えています。

鎌倉側もこれに応える形で、関東管領上杉憲顕が上京して礼を述べ、基氏から金王丸への家督継承は順調にすすみ、鎌倉府は関東10ヵ国を管轄する形もそのまま続くことになりました。

基氏が死んだ年の12月7日。将軍義詮が没しました。義満が将軍を継承しますが、まだ10歳。鎌倉公方氏満は9歳ですから、京都と鎌倉は幼君によって統治されることになったのです。

 

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