室町幕府初代将軍足利尊氏の生涯【後編】・室町幕府創設から南北朝へ

足利尊氏の時代
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後醍醐天皇の許可なく鎌倉に下向して、北条残党の反乱である中先代の乱を制圧した尊氏。いよいよ、本格的な動乱の時代に突入しています。

 

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建武政権から離反

1335年(建武二年)7月、中先代の乱鎮圧のために鎌倉に下向し、鎌倉に留まる尊氏に対して、後醍醐天皇は早く上洛することを命じる勅使を送ります。尊氏は、すでに鎌倉で恩賞を与えていたことから、尊氏に従った武士たちの恩賞は綸旨で行うことも伝えられました。

尊氏は勅命に従い上洛しようとしますが、弟直義に反対されて鎌倉に逗留。10月に入ると、旧鎌倉幕府将軍邸に自身の屋敷を建てて移ります。すると、自身を征夷大将軍と自称して武士たちと主従関係を築き始めました。

その間に、足利氏と新田氏の関係が急速に悪化します。11月に入って、直義は新田義貞追討の檄文を全国の武士に発し、尊氏は後醍醐天皇に義貞討伐を奏請しました。

ところが、後醍醐天皇は上洛しようとしない尊氏・直義兄弟の官位をすべてはく奪し、19日には新田義貞に尊氏追討を命じます。尊氏は朝敵となったのです。

勅勘を恐れた尊氏は、政務を直義に譲って鎌倉浄光明寺に籠もります。

尊氏討伐の命を受けた新田軍は、待ち構える足利軍を次々と破り、直義は高師直・師泰とともに箱根まで防衛線を下げて、ここを死に場所と覚悟を決めました。

尊氏は、直義の危機を救うべく、髻を切って出陣します。そして、箱根・竹之下の戦いで義貞軍を破り、敗走する義貞軍を追って西上しました。

 

 

1336年(建武三年)1月3日、足利軍と後醍醐軍の戦いが瀬田・宇治で始まります。10日に足利軍は、西から赤松勢と細川勢の支援を受けて後醍醐軍を撃破し入京。この夜、後醍醐天皇は比叡山に逃れました。

しかし、13日になって陸奥から北畠顕家軍が京都周辺に現れると形成は逆転し、30日の糺河原の戦いで敗北。足利軍は丹波から兵庫、九州へと逃れていきます。

このとき、尊氏は重要な布石を二つ打ちます。一つは、赤松円心の進言に従い、持明院統の光厳上皇から後醍醐天皇追討の院宣を賜ること。もう一つは元弘以来没収地返付令を出して、味方についた武士には建武政権によって没収された所領を返却することを表明し、味方の軍勢を募ることでした。

 

 

九州に上陸した尊氏は、少弐・大友をはじめとする九州の武士たちを糾合しながら、3月2日に多々良浜で菊池武敏を破ります。

 

 

4月に入ると九州から大船団を率いて上洛戦を開始。5月25日に湊川の戦で楠木正成・新田義貞連合軍を破り、6月14日に光厳上皇を奉じて入京しました。

 

 

後醍醐天皇は、三種の神器を伴って比叡山に籠ります。後醍醐軍は、入京した足利軍の補給路を断って、いわば足利軍を兵粮攻めにする作戦に出ます。一方で、足利軍も比叡山への兵粮の補給路を経ったので、両軍とも消耗戦の様相を呈します。

8月15日、尊氏は光明天皇を三種の神器がないまま即位させます。

 

室町幕府の成立と南北朝の動乱

京都の足利軍と比叡山の後醍醐軍の対峙は100日以上たって、足利軍の形成有利となります。

尊氏は後醍醐天皇に講和を申し入れ、後醍醐天皇は承諾して下山を決意します。

講和の条件は、後醍醐天皇と光厳上皇が和睦して、後醍醐天皇は光明天皇に譲位し、皇太子には後醍醐天皇の皇子を立てるというものでした。両統迭立です。

 

 

11月2日、後醍醐天皇から光明天皇へ三種の神器が渡されたことで、光明天皇と足利政権の正統性獲得手続きは完了しました。11月7日、建武式目が制定され、この時をもって室町幕府が成立したとされています。

 

 

12月21日の夜、後醍醐天皇が幽閉先の花山院を夜陰にまみれて脱出し、その後、楠木一族の案内で吉野(奈良県吉野町)に入り、光明天皇に渡した「三種の神器は偽物」であると宣言した上で自身の正当性を主張し、足利討伐を全国に呼びかけます。

ここに京都の北朝(持明院統)、吉野の南朝(大覚寺統)の2人の天皇が並び立つことになり、南北朝時代に突入しました。

 

 

1337年(暦応元年)、足利尊氏率いる幕府軍は北朝優位の形成を築いていきます。5月に2度目の上洛戦を敢行した北畠顕家は和泉石津で高師直に敗れて戦死、閏7月に越前藤島で新田義貞が討死します。

 

同年8月11日、尊氏は正二位に叙されるとともに、征夷大将軍に任命されます。

翌1338年(暦応二年)8月16日、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、南北朝の分裂も時間の問題というところまで北朝の優勢は決定的となります。

観応の擾乱

幕府は、尊氏と直義の二頭政治によって行われました(実質は直義の政治)。

 

 

京都周辺では目立った大きな戦いは行われことから、治世を主導する直義とその一派の声望は高まり、一方、戦いによって声望を高めてきた高師直・師泰兄弟とその一派は影響力を弱めます。

 

 

ところが、1348年(貞和四年)1月に楠木正成の遺児正行が挙兵し、四条畷の戦いで高師直・師泰兄弟がそれを破ると、幕府は激しく分裂することになります。

勝利をおさめた師直は河内の公家・寺社領を北朝・幕府に断りなく兵粮料所として配下の武士に給与するなど、朝廷に対する幕府の面目を潰す行動に出ました。

1349年(貞和五年)閏6月、直義は尊氏に迫って師直の執事職罷免に追い込みます。これに対して、高師直は兵を集めて尊氏・直義兄弟のいる将軍邸を包囲し、直義は失脚します。

その後、直義は出家、鎌倉にいた義詮が上洛して、師直が執事職に復帰して師直派が幕政の主導権を握りました。

 

 

1350年(観応元年)10月26日、京都を脱出した直義は師直討伐の兵を諸国に募るとともに南朝に降伏を申し入れ、尊氏に対しても明確に叛旗を翻します。

1351年(観応二年)2月17日、直義は摂津打出浜の戦いで尊氏・師直軍を破って、20日に尊氏と和睦した上で、26日に師直・師泰とその一族と郎党を誅殺しました。

 

 

しかし、尊氏と直義の亀裂は修復できるものではなく、さらに義詮が直義と対立し始めたことから、尊氏・義詮対直義の様子を呈していきます。

7月、南朝に寝返った佐々木道誉を討伐すると称して近江に出陣。義詮は、同じく南朝に寝返った赤松則祐を討つと称して播磨に出陣します。直義は尊氏・義詮父子に東西から攻撃されることを恐れて、京都を脱出し北陸に逃れ鎌倉を目指します。

8月25日、尊氏が南朝に降伏します。北朝はこれをもって消滅という憂き目にあいます。

11月4日、尊氏は直義追討のために鎌倉に向けて出陣。同年12月、尊氏は駿河薩埵山の戦いで直義軍を破ると、伊豆走湯山で直義を降伏させます。

1352年(正平七年)2月26日、直義は鎌倉浄妙寺境内の延福寺で急死します。この日は、高兄弟が直義派によって惨殺されてちょうど1年でした。

『太平記』では、尊氏が直義を毒殺したことになっていますが、事件の真相は闇の中です。

 

尊氏の死

観応の擾乱で勝利した尊氏ですが、1352年(正平七年)2月に北畠親房らの南朝軍が和議を破って京都に攻め込み、関東でもそれに応じて新田義貞の次男義興・三男義宗らが鎌倉に攻め込んできます。

尊氏は閏2月28日から3月2日にかけての武蔵野合戦で南朝軍に勝利をしたあと、1353年(文和二年)7月、京都で南朝軍と攻防戦を繰り広げている義詮を救援するために、関東の大軍勢を率いて上洛します。

 

 

観応の擾乱後、尊氏の庶子で直義の養子になっていた直冬が、南朝と手を結んで度々京都を攻撃していました。

尊氏は晩年までこの直冬との戦いに費やされます。

 

 

1358年(延文三年)4月30日、尊氏は背中の「できもの」が悪化し、54歳で没しました。

戒名は「等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿」。

足利将軍家の菩提寺等持院(京都衣笠)に尊氏の墓所があります。

 

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