室町幕府初代将軍足利尊氏の生涯【前編】・誕生から建武の新政まで

足利尊氏の時代
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室町幕府初代将軍足利尊氏。明治以降の教育では天皇に弓を引いた謀叛人として扱われてきた影響もあって、源頼朝や徳川家康に比べて人気もありませんし、人物評価も悪く言われる傾向にありますが、どのような人生を歩んできたのでしょうか?

今回は、誕生から建武の新政まで見ていきましょう。

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誕生から家督相続

足利尊氏は1305年(嘉元三年)、足利貞氏と家女房(側室)の上杉清子との間に生まれました。幼名は明らかになっていませんが、足利又太郎と名づけられています。足利氏の嫡男は代々「三郎」を名乗るのが習慣だったことから、尊氏は嫡男ではなかったということになります。

それでは、嫡男はだれか?となりますが、高義で尊氏の兄にあたります。高義の母は金沢流北条顕時の娘で、15代執権金沢貞顕の妹だったことから、家督は高義が継ぐことは間違いなかったと言えるでしょう。

ちなみに、足利氏は尊氏の曽祖父頼氏までは北条得宗家の娘を正室に迎えていましたが、頼氏の嫡男で、尊氏の祖父家時の代から北条庶子家から娘を迎えています。このことから、足利氏が北条得宗家から軽んじられたという説があります。

しかし、金沢氏は北条庶子家でありながら、北条一門で重きをなし、幕府内で実権がなくなってきたとはいえ執権を輩出する家柄です。したがって、足利氏が得宗家から軽んじられたとは言いきれないのです。

 

 

得宗家の娘はどこに嫁いでいたのか?というと、北条一門に嫁いでいます。庶子家が得宗家から離れて独立しようとする動きを封じるためでした。鎌倉幕府家格ランキング1位の北条氏といえども、庶子家が惣領家から独立しようとするこの時代の流れに苦慮していたのです。

話は戻って嫡男高義ですが、1317年(文保元年)に21歳の若さで没します。1319年(元応元年)、尊氏は15歳で従五位下治部大輔に叙されて元服し「高氏」と名乗りました。

足利氏の家督は、北条得宗家の偏諱と足利氏の「氏」を組合せて名乗るのが通例で、高氏は得宗北条高時の「高」と足利氏の「氏」からなる「高氏」を名乗ったのです。尊氏が、得宗家から足利氏の嫡男として正式に認められたのです。

高氏は、足利一門で加古基氏の娘と結婚し、竹若丸をもうけていました(竹若丸は尊氏の六波羅攻めの際、鎌倉を脱出しますが北条氏の討手によって誅殺されました)。その後、北条一門で得宗家に次ぐ家格の赤橋流北条久時の娘登子を正室に迎えます。最後の執権赤橋守時は登子の兄、つまり尊氏義兄にあたります。

 

 

1330年(元徳二年)に登子との間に嫡子千寿王が誕生します。室町幕府2代将軍足利義詮です。

翌1331年(元弘元年)9月5日、父貞氏が59歳で没すると、高氏は27歳で足利氏の家督を継ぎました。

六波羅探題攻略

高氏が足利氏当主になったころ、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚して、1331年(元弘元年)8月27日に山城と大和の境にある笠置山で挙兵する事件が起きていました。

これを受けて幕府は、大仏貞直・金沢貞冬らとともに高氏を後醍醐討伐軍の大将として派遣することを決定します。

幕府軍の鎌倉出陣は9月5日~7日で、貞氏が没して間もないことから高氏は出陣を催促を拒みますが、幕府の再三の要請についに折れて出陣することになります。『梅松論』では、この時に幕府に恨みを持ったと記されています。

ただし、幕府としては高氏に嫌がらせをしようという魂胆はおそらくなく、「承久例」に従って催促しただけと考えられます。

「承久例」とは、1221年(承久三年)に勃発した承久の乱において、幕府東海道軍の大将が北条泰時・北条時房・足利義氏だったことから、上洛軍は北条一門と足利氏が大将となる先例のことです。

 

 

上洛した幕府軍と六波羅軍によって、9月28日に笠置山は陥落し、11月末には高氏は鎌倉に帰っていきます。後醍醐天皇は笠置山を脱出するも捕らえられ、翌1332年(元弘二年)3月に隠岐へ配流されます。これも後鳥羽上皇の隠岐配流にならった「承久例」といえるでしょう。

 

 

1333年(元弘三年)閏2月、隠岐を脱出した後醍醐天皇は伯耆船上山で名和長年の援助を受けて再び挙兵しました。笠置山で護良親王、河内で楠木正成、播磨で赤松円心が呼応して挙兵します。

幕府は、名越高家と足利高氏を大将に再び上洛軍の派遣を決定。高氏は病気を理由に拒否しますが、幕府の再三の要請を断りきれず出陣しました。その際、幕府は高氏に対して忠誠を誓う起請文を提出させたといいます。この上洛軍の大将も「承久例」に倣った軍制です。

3月27日、鎌倉を出陣した高氏は、このとき幕府に弓を引く気があったかどうかはわかっていません。祖父足利家時の天下取りの「置き文」を三河到着時に見せられた高氏が、このときに天下取りを決心したことを記した『難太平記』の話が有名ですが、室町幕府成立後の「あとづけ」で創作されたという説が有力です。

『梅松論』では、足利軍が近江の鑑宿に到着したとき、細川和氏と上杉重能の2人が後醍醐天皇の綸旨を高氏に届け、再三にわたり挙兵を促したとしています。

京都六波羅に入って軍議が行われた結果、名越高家は山陽道経由で、高氏が山陰道経由で後醍醐が籠もる船上山へ向かうことになりました。

ところが、4月27日に名越高家は京都南部の久我縄手の戦いで戦死します。29日に高氏は丹波篠村八幡宮に六波羅攻略の願文を納め、全国の有力御家人に挙兵の参加を呼びかけます。

5月7日になって、高氏は赤松円心や千種忠顕らとともに京都へ攻め込み六波羅軍を破り、六波羅探題を攻略しました。

そして、5月22日に新田義貞が鎌倉を落として鎌倉幕府と北条一族は滅亡します。

 

建武政権

1333年(元弘三年)6月5日、後醍醐天皇が伯耆船上山から京都に戻ってきます。

 

 

その日のうちに高氏は鎮守府将軍に任じられて昇殿が許されます。そして、12日には従四位下左兵衛督に叙任され、弟直義も従四位下左馬頭に叙任されました。

8月5日、高氏は後醍醐天皇から「尊治」の一字を賜って「尊氏」と改めます。さらに、従三位に叙されるとともに、北条氏が独占してきた武蔵守に任じられて武蔵を掌握します。9月14日には参議に任じられました。

このように、尊氏は建武政権下で順調に官位を上昇させていきましたが、「(建武政権には)高氏なし」と当時の人が噂したように、政権の中枢から排除される傾向にありました。

政権に不満をもつ旧幕府の御家人などから支持を集める尊氏を、後醍醐天皇が警戒したからと言われ、また他の武士・公家より官位を早く上昇させたのは、後醍醐の尊氏への懐柔策と考えられています。

一方で、近年では後醍醐天皇と尊氏は相当仲が良かったとも指摘されています。

 

 

尊氏と後醍醐天皇の2人の関係に暗い影を落とし続けた人物は、護良親王です。護良親王は、六波羅探題が滅亡したときから尊氏の動向を警戒していました。

 

 

1334年(建武元年)9月になって、護良親王は尊氏の暗殺の機会をうかがいますが、尊氏が大軍勢で護衛したため失敗に終わります。

尊氏は、護良親王の自身への暗殺の動きを後醍醐天皇に問いただしますが、後醍醐天皇は「全く叡慮にあらず」と弁明したため、10月22日に中殿の御会(清涼殿での歌会)に出席するために参内したところを捕らえられ、武者所に留置され、その身柄は足利氏に預けられて鎌倉に送られました。

 

 

1335年7月、最後の得宗北条高時の遺児で、信濃の諏訪氏にかくまわれていた時行が挙兵し、鎌倉を占拠する反乱が起こります。中先代の乱といいます。

このとき、鎌倉にいた直義は、鎌倉を捨てて三河へ逃れるときに、幽閉していた護良親王が北条残党に奪われて、利用されることを恐れて殺害します。

京都で鎌倉陥落の連絡を受けた尊氏は、弟直義の救援と鎌倉奪還のための出陣の許可を後醍醐天皇に求めました。その際、征夷大将軍と惣追捕使の任官を要求しますが、後醍醐天皇は尊氏の全ての要求を拒否されます。

8月2日、尊氏は許可の出ないまま出陣します。9日に尊氏には「征東将軍」の称号がおくられて、その行動が追認されます。

同日、遠江橋本の戦いに勝利したのち、佐夜中山・高橋・箱根・相模川・片瀬川で時行軍を撃破しながら東進し、19日に鎌倉を奪還しました。

 

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