護良親王の没落~尊氏暗殺未遂から鎌倉幽閉まで

建武の新政
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「鎮守府将軍」足利尊氏が旧幕府の御家人たちを中心に人気を高める一方で、尊氏を敵視する「征夷大将軍」護良親王の人気は衰えていきます。さらには、父後醍醐天皇からも疎外されるようになりました。

 

幕府滅亡直後の高氏と護良の確執

鎮守府将軍足利高氏と征夷大将軍護良親王

 

護良親王は、自らの劣勢を跳ね返すべく、舅の北畠親房と共同で尊氏挟撃作戦ともいうべき手立てにでました。

それは、京都から護良親王、奥州から義良親王と北畠親房・顕家父子が、足利氏を挟んでけん制するというものでした。

 

陸奥将軍府と鎌倉将軍府というミニ幕府

北畠親房・顕家父子と護良親王の打倒足利計画

 

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征夷大将軍解任と令旨の無効

ところが、推定では1333年(元弘三年)9月頃、少なくとも10月12日に義良親王・北畠父子が奥州に下向する前までには、護良親王は征夷大将軍を解任されてしまいます。征夷大将軍の在任期間はたったの3カ月程度。

将軍解任とほぼ同時期に、護良親王が発給した令旨を無効とする後醍醐天皇の綸旨まで出されます。しかも、親政以前に発給した令旨も対象とされたのです。

つまり、護良親王が発給した令旨全ての無効化です。

こうして護良親王は、武士の服属を求めるのに最も強力な称号ともいうべき「征夷大将軍」と、武士の服属を保証する手段である「令旨」までもが奪われたのでした。

護良親王は兵部卿という官職を与えられていますが、それを利用して政権内に足場を築くというよりも、武勇をもって衰えた声望と権威を回復しようと試みます・・・。

『太平記』によれば、「護良親王は自分の思うままに好き勝手やり放題で、世の人々から非難を受けているのも気にせず色んなお姉さまとドンチャン騒ぎをし、武芸が達者とあれば忠誠心があろうがなかろうがお構いなしに雇う。しかし、その武芸者も『にせの武芸者(ソラカラクル者)』で、毎晩京都白河あたりで辻斬りをしていた(意訳)」というあり様です。

世の人々のそしりを受けても仕方ありません。

護良親王は、倒幕活動のときに自らの武士団を畿内南部(大和・紀伊)に形成していたのですが、「にせの武芸者」を雇っているところをみると、その武士団は弱小化していたか、主人を変えていたと考えられます。

征夷大将軍でもなく、所領安堵すら保障できない護良親王についていく武士などあろうはずもないわけです。

ですから、彼は「にせの武芸者(ソラカラクル者)」を雇い尊氏と張り合うより他はなかったわけです。

尊氏襲撃計画

護良親王が征夷大将軍を解任されて半年を過ぎた1334年(建武元年)5月ごろ。護良親王は尊氏襲撃を計画し始めたといいます。しかも、その首謀者は後醍醐天皇・・・。

足利側、つまり北朝側から記された『梅松論』には、「護良親王は新田義貞・楠木正成・名和長年から密かに後醍醐天皇の御意向(叡慮)を受け、計画を練った(意訳)」と記されています。

武士たちの支持を集め、勢力拡大をはかる尊氏を消すことを後醍醐天皇が考えても不思議ではありません。

のちに、護良親王が後醍醐天皇によって捕らえられたとき、「尊氏よりも後醍醐天皇が恨めしい」と言ったことは有名な話です。

護良親王は、正面から尊氏邸を襲撃する計画、天皇の行幸に尊氏が随行する機会を狙って奇襲をかける計画を立てたようです。

ところが、護良の襲撃計画を察知した尊氏は圧倒的な兵力で自邸を固めます。また、後醍醐天皇の行幸に随行する際は、天皇を守るという理由で寺社参詣ではありえない大軍を引き連れていきます。

1334年(建武元年)9月21日の石清水八幡宮、23日の東寺、27日の賀茂神社の行幸は何事もなく無事に終わりましたが、尊氏の完全防備によって、後醍醐・護良父子の尊氏を倒す機会は完全に奪われたのでした。

10月22日、護良親王は中殿の御会(清涼殿での歌会)に出席するために参内したところを、後醍醐天皇の側近武士である結城親光と名和長年によって捕らえられ、武者所に留置されました。

この事件について『太平記』は、「護良が帝位を奪う陰謀から、諸国の兵を召集しようとした。尊氏はその証拠を手に入れて、阿野廉子を通じて後醍醐天皇に知らせたので、後醍醐天皇は護良親王逮捕にふみきった」と述べており、『保暦間記』も、謀反の陰謀説を記しています。

護良親王が本当に帝位を狙ったのかは明らかではありませんが、諸国の兵を動員する計画はあったのでしょう。

護良親王幽閉

後醍醐天皇によって護良親王は流罪となります。尊氏の手で鎌倉に護送され、直義監視の下で幽閉されました。そして、翌年1335年(建武二年)7月、直義の手にかかって非業の死を遂げることになります。

ところで、護良親王を鎌倉に送ったことは形式的には流罪ですが、後醍醐天皇は護良親王の身柄を、彼の敵である尊氏に引き渡したことになります。

当時の武家社会では、私闘の解決手段として、加害者の身柄を被害者に引き渡して、その処分を委ねることが広く認められていました。

護良親王謀叛の件は、私闘の扱いだったのです。

このことからも、護良親王が帝位を奪おうとして捕らえられたというよりも、尊氏追討のために諸国の兵を召集したのではないでしょうか。

尊氏にことの顛末を追及された後醍醐天皇は、護良親王の身柄を尊氏に引き渡さざるを得なかったと考えられます。

護良親王が捕らえられてから、彼の手下だった南部・工藤らは六条河原で処刑されます。

護良親王に早くから従っていた浄俊律師という僧侶も12月に処刑されます。浄俊は、正中の変で首謀者として佐渡に流された日野資朝の弟にあたる人物です。

さらに、後醍醐天皇の信任のあつい中納言万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、護良親王逮捕の2週間前に突然失踪しています。

万里小路藤房は、親政の非を後醍醐天皇に説くも聞き入れられず、親政に絶望して失踪したと言われていますが、時期が時期だけに何かに関わっていたのかもしれません。

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