尊氏死後の室町幕府~足利義詮と守護大名の状況を解説

南北朝時代
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尊氏死後の室町幕府の様子は教科書などにも記載がないので、ほとんど知られていません。いきなり、義満が出てきて南北合一、日明貿易とかですから。

そもそも、二代将軍が義詮であることを知っている人はどのくらいいるのでしょう。

ということで、尊氏死後の室町幕府の様子をご紹介しましょう。

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義詮登場

1358年(延文三年)4月30日深夜、足利尊氏は54歳の生涯を閉じました。

 

 

尊氏の後は嫡男の義詮が継いぎますが、彼はここで突如歴史の舞台に出てきたのではありません。すでに、父の名代としてそれなりの経験を重ねてきています。

1333年(元弘三年)5月の新田義貞の鎌倉攻めでは、父の名代として倒幕軍に従軍。鎌倉幕府滅亡ののちは、わずか四歳で父の代わりに鎌倉の主となり、尊氏が幕府を開いたのちも鎌倉と関東の押さえを担ってきました。

 

20歳のときに上京して幕府の政務に参画し、1350年(観応二年)に尊氏が関東を下ったときは、京都に残って幕府を統括、尊氏帰京ののちも、父と協力しながらこれを支え続けました。

>>>義詮の頑張りがわかる記事

 

尊氏が死去したとき、義詮は29歳。このように、かなりの政治経験を有していたことがわかります。

義詮は父尊氏や子義満よりはるかに地味ですが、冴えない二代目という評価は違う気がします。

しかし、義詮の前途は多難でした。幕府を指導していくのに十分な経験と年齢に達していましたが、周囲には義詮以上に経験豊富な年長の宿老たちがいて、この中で自らの地位をいかにして保つのかという難題が、新将軍につきつけられたのです。

足利一門の宿老たち

将軍職を支える執事職には、足利一門の仁木頼章が任じられていましたが、尊氏が死去すると間もなく出家して、執事職を退いてしまいました。

後継の執事に誰を任命するのか、世間の注目が集まるなか、義詮が選んだのは、同じ足利一門の細川清氏でした。

執事職にはかつて高一族が長く任じられてきましたが、師直が滅んで以降は足利一門から選ぶようになっていました。

この時、細川氏の中心にいた清氏と、頼章の弟仁木義長が有力候補で、関東にいる畠山国清も彼らと並ぶ力をもっていました。

義詮が幼少で鎌倉の主になったとき、筆頭として支えたのは細川和氏でしたが、清氏は彼の長男で、早くから尊氏に従って活躍し、南朝方との戦いにおいても功績を挙げています。

しかし、越前の守護職を望んだところ、尊氏に拒否されたので、腹を立てて阿波に帰ってしまいました。尊氏が死去すると帰京して、晴れて執事に抜擢されたというわけです。

仁木義長も功績抜群の重臣で、二回にわたって侍所の執事をつとめ、さらに伊勢・志摩・伊賀・三河と続く四ヵ国の守護でした。

畠山国清も古くからの重臣で、一時足利直義に従って尊氏と敵対しますが、帰参したのちは尊氏に重用され、尊氏の鎌倉入りに従軍してそのまま関東執事の地位についていました。

足利直義と高師直の対立に端を発する「観応の擾乱」とよばれる内紛は、足利幕府を二分する深刻なものでした。

師直が滅亡したのちも、尊氏派と直義派の対立という形で内紛は続き、直義が死去しても直義派の活動はおさまらず、各地の残る反対派の動きを抑えながら、尊氏政権はなんとか保たれてきました。

幕府が分裂する中で、尊氏を支え続けてきた足利一門がこの三人です。

29歳の義詮の前には、勲功抜群の経験を積んだ一門の宿老が並び立っていたのです。

歴戦の外様大名

義詮の前で大きな顔をしていたのは一門だけではありません。

室町幕府はその当初から、畿内の周辺大名たちによって支えられ、彼らも幕政に参加していました。

足利一門だけでなく、外様の大名も政治の中枢にいるというのが室町幕府の特質です。足利一門が多いのですけれども…

近江の佐々木氏は二流に分れ、近江南部七郡をおさえる六角家と北部五郡を支配する京極家が並び立っていましたが、両家とも尊氏に従って、幕府の中でそれなりの地位を得ました。

六角家の佐々木氏頼は近江守護の地位にありましたが、幕府内部で実権を握ったのは京極家の佐々木道誉で、尊氏の信任が厚く大活躍しました。

尊氏死去当時、62歳になっていましたが、まだまだ元気で衰えをみせず、長老として大きな発言力をもっていました。

近江の東の美濃の土岐頼康は、功績を認められて美濃と尾張の守護を兼ね、東海の押さえとしての役割を果たしていました。

>>>バサラ大名だった佐々木道誉

一方、西国の要となったのは播磨の守護赤松則祐で、その兄貞範は美作の守護になります。

土岐頼康と赤松則祐は美濃と播磨にいることが多かったようですが、幕府政治に深く関わり、義詮にとって頼もしくもあり、うっとうしい存在だったのです。

 

むすび

宿老が居並ぶ幕府において、義詮は自身の将軍権力を高めていく戦いをしなければならない運命にありました。

思えば、頼朝亡きあとの頼家は、自身の将軍権力の確立に失敗し、宿老たちによって滅ぼされました。

義詮も対応を誤れば、頼家のように滅ぼされる可能性があったのです。さらに、ライバルも多くいました。足利一門なら誰もが将軍のチャンスがあるのです。

義詮は、無能将軍のレッテルをはられたりしていますが、当サイトでは傲慢な守護大名の中で将軍権力を育み、義満につないだ名将軍と考えています。

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