鎌倉時代

鎌倉時代も坊主丸儲け?~商工業の発達と高利貸しの出現

鎌倉時代は、武家政権の誕生や鎌倉新仏教の勃興、貨幣経済の発達などによって社会が大きく変化した時代なのですが、商工業の発達も見逃すことはできません。 商工業の発達 貨幣経済と商工業の発達は、農業を主体とする御家人たちに大きな影響を与えました。...
鎌倉時代

無足の御家人~所領がない貧乏御家人が発生した理由

鎌倉時代は、言うまでもなく武士の時代。 ところが、幕府が朝廷の権力を凌ぐようになり、全国にその覇権が広がれば広がるほど、武士が没落するという摩訶不思議な現象が起こります。 正確には、勢力を拡大する幕府の「御家人」といわれる武士たちが没落...
鎌倉時代

鎌倉幕府滅亡の原因は飢饉?

鎌倉幕府が滅亡した要因はたくさんあります。蒙古・御家人の不満・悪党・御内人の専横・北条氏の幕府独占などなど。 しかし、意外と語られないのが、鎌倉後期の社会背景です。「全ての原因はこれかもしれない」と思える要因。 タイトル通り「飢饉(きき...
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鎌倉時代

鎌倉と鎌倉仏教~日蓮など様々な僧侶が集う宗教・文化都市

鎌倉時代は、武士が政治の表舞台に出てくる大転換期といえる時代でしたが、宗教の世界もまた大転換期だったということを無視するわけにはいきません。 浄土宗や日蓮宗、禅宗とっいった歴史の時間で学んだ「鎌倉仏教」とよばれる宗派が登場したのです。 ...
建武の新政

北畠顕家の諫奏に見る後醍醐天皇の失政

1336年(建武三年・延元元年)5月、建武政権は瓦解しました。 後醍醐天皇は、鎌倉幕府滅亡につながる元弘の乱の混乱を収束出来なかったばかりか、急進的な改革でさらに混乱を誘発しました。 長きにわたる戦乱と飢饉によって、人々は疲弊しきってい...
足利尊氏の時代

尊氏の京都再攻略と南北朝時代の幕開け

1336年(建武三年・延元元年)5月25日、楠木正成は湊川の戦いに散りました。 後醍醐天皇は、生前に楠木正成が主張した作戦を採用します。 それは、後醍醐天皇は比叡山に退き、尊氏を入京させ、京都を包囲することで尊氏軍を殲滅するとい...
足利尊氏の時代

湊川の戦い・足利尊氏 vs 楠木正成・新田義貞

九州に落ちた足利尊氏は、多々良浜の戦いで勝利をおさめたことにより、再び京都を目指すことになります。 九州の多々良浜(福岡県福岡市)で尊氏が勝利する直前の2月29日、京都では後醍醐天皇により改元が行われて延元元年となりました...
足利尊氏の時代

多々良浜の戦い

京都・兵庫で後醍醐方に敗れた足利尊氏は、持明院統の担ぎ出し裏工作や一種の徳政令を出して味方の兵を募るなど、次の一手を打ちながら九州へ退いていきます。 尊氏九州上陸 1336年(建武三年)2月29日、尊氏軍が筑前芦屋ノ津(福岡県...
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