【鎌倉幕府の成立】源頼朝を補佐した文士官僚たち

源頼朝
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源平合戦といわれる治承・寿永の乱になかで、源頼朝の勢力圏が拡大するなかで増加していった家人こそが、中央である京都への反乱政権である頼朝の軍事的基盤であり、権力基盤でもあったのです。頼朝がこの権力を行使するためには一般行政事務を担当する者が必要でした。

ところが、関東武士は優れた軍事力でしたが、行政事務は全く不得手でした。そこで、頼朝は実務能力に優れた京都の下級貴族を鎌倉に呼び寄せ、幕府制度の確立に努めていくことのなります。

 

 

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三善康信

1160年(永暦元年)以来、平家によって伊豆国に配流されていた頼朝ですが、京都の情勢はある程度把握していたようです。その情報源となったのが三善康信(1140~1221)です。彼は頼朝の乳母の妹の子にあたります。

三善氏は古来、学問の家として知られ、とくに平安時代中期以降、明法道(法学)を家学とした系統です。三善康信は、毎月三度、使者を頼朝のもとに派遣して、京都の様子を連絡するなどしています。特に、頼朝が打倒平家の挙兵を判断する際には、畿内の詳細な情勢を伝えていたことが考えらますので、極めて重要な役割を果たしていたと言えます。

康信は頼朝挙兵後も京都にとどまり、内外の情勢を頼朝に連絡していましたが、1184年(元暦元年)4月に鎌倉に下ってきました。その翌日、鶴岡八幡宮で頼朝と対面し、頼朝の政務を補佐するように要請され、鎌倉にとどまることにりました。

問注所の開設に際して初代の執事となり、幕府の基礎を固めたことはよく知られています。

中原親能

中原親能(1143~1208)もまた京都から鎌倉に下ってきた下級貴族の一人です。中原氏もまた明法道(法学)を家学とした家柄で、明法博士広季の子として親能は生まれました。親能は幼い時代を相模国(神奈川県)で過ごしたので、頼朝とは古くからのなじみであったと伝えられています。

頼朝挙兵のころ、京都で下級役人として頼朝のために行動していたらしく、その後、鎌倉に下向しています。公文所開設にあたっては寄人ともなり、また「公事奉行人」として政務を担当しています。

大江広元

鎌倉幕府草創期の最も著名な官僚と言えば、大江広元(1148~1225)より右に出る者はいないのではないでしょうか。大江氏は平安時代以降、文章道(漢詩文や歴史)を家学とし、江家(ごうけ)とも称された家です。11世紀後半の大江匡房は特に有名で、広元はこの匡房の曾孫にあたります。

広元は、生母が中原広季と再婚したことから、広季の養子となりましたので、中原親能の義弟にもあたります。親能が頼朝に仕えたことから、広元もまた鎌倉に下向して、頼朝の片腕として重用されました。

公文所開設にあたっては別当(長官)となり、1185年(文治元年)には、鎌倉幕府の根幹制度ともいえる「守護・地頭」の設置を頼朝に献策しています。

後に、公文所が政所へと改称されると(時期については1185年とも、1191年ともいわれます)、その別当として幕府の基盤を強化することにつとめたのです。

二階堂行政

二階堂(藤原)行政も、1184年(元暦元年)頃に鎌倉に下向しています。彼は、朝廷では民部省(諸国の戸籍賦役を担当)の主計少允という官職に任命されているので、財政面の能力を高く買われたのかもしれません。二階堂行政の母が、頼朝の外祖父熱田大宮司藤原季範の妹ということも鎌倉下向に深く関わっていたと考えられます。

いずれにしても、三善康信・中原親能・大江広元・二階堂行政という頼朝の頭脳ともいうべき官僚たちが1184年(元暦元年)初めまでに下向し、幕府創設に多大な貢献をしたのでした。

鎌倉に下向した他の官僚たち

彼らのほかにも、京都の事情に明るい人々が多く鎌倉に下向してきました。源氏一族の安田義定の推挙された藤原広綱は、京都に詳しい右筆(秘書)として頼朝に仕えることになりました。

また、頼朝の招きによって下向して、神社行政を担当した山城介久兼や、北条時政の推挙で下向し、奥州合戦(1189)後、陸奥国留守職として民政を担当した伊沢家景など、多くの有能な官僚が幕府の行政を担っていくことになりました。

彼らの多くが下級貴族でしたが、頼朝政権における行政事務関係のほとんどが彼らによって担当されました。

もちろん、鎌倉殿頼朝の側近は彼ら京下りの官僚たちだけではありません。ある面では北条時政などは側近の筆頭だったでしょうし、平家追討軍のなかで源義経と対立したことで有名な梶原景時も側近の一人と言えます。

鎌倉幕府草創期の機構整備とその特徴

鎌倉幕府樹立当初、頼朝と彼を囲む少数の秘書的スタッフによって家族的に運営されていたいろいろな政務・事務が、頼朝の政治勢力の伸張にともない繁雑化し始めます。

さらに、頼朝と御家人の関係を軍事的な有事だけでなく、平時をもふくめた恒常的なものとして制度化していくにあたって、各分野を専門的に担当する機構の整備が必要となり、その充実がはかられることになりました。

頼朝挙兵の3か月後の1180年(治承四年)には、侍所を設け和田義盛をその別当に任命して、家人たちを統制することにしました。さらに1184年(元暦元年)公文所(のちに政所)を開設して、大江広元を別当に、中原親能・二階堂行政・足立遠元・甲斐秋家・藤原邦道らを寄人としました。

これに少し遅れて頼朝邸の一角に問注所を設置し、裁判事務を処理させることにします。その執事には三善康信が就任し、藤原俊兼・平盛時がこれを補佐することになりました。

しかし、裁判事務を問注所が処理するといっても、問注所自体が判決を下すわけではありません。裁判はすべて頼朝が行い、問注所はそれに必要な書類をつくる手続き面を担当するだけでした。

鎌倉幕府草創期の機構はすべて頼朝の補助機関であり、決定権は頼朝にあるという独裁体制でした。

また、公文所と問注所の役人が同じ雑務を担当するという場合が多くみられ、これらの機構にそれぞれ属する人々は機構にとらわれることなく、必要に応じてその時々の仕事をしていたようです。すなわち分業体制ではなかったのです。

これらの人々は、そのうちに「公事奉行人」称され、1191年(建久二年)当時、中原親能・藤原俊兼・三善康清・三善宣衡・平盛時・中原仲業・清原実俊の7名を数えるに至ります。

軍事基盤の関東武士団と、政治機構を拠点として行政事務を担当する京下りの側近官僚。この両者を統率して独裁者として君臨したのが源頼朝なのです。

 

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