幻了

鎌倉時代

【元寇前夜】蒙古使者と異国の防御をすすめる鎌倉幕府

日本の中世における外交史の中で、もっとも強烈な事件は蒙古襲来でしょう。文永・弘安の役と言われ、今となっては歴史の中に埋もれてしまいがちですが、江戸末期の開国・太平洋戦争(大東亜戦争)に匹敵する国難だったと言えるのではないでしょうか。 結論...
鎌倉時代

時宗の執権就任~将軍宗尊親王の追放&二月騒動、寄合政治の本格化

1263年(弘長三年)11月、北条時頼は最明寺において37歳の生涯を閉じました。戒名は最明寺道崇。 執権・得宗北条時宗の誕生 当時は6代執権赤橋流北条長時、連署は政村でした。時頼の子の時宗はまだ13歳。幕府としては、まだ眼代(中継ぎ)として...
鎌倉時代

【引付衆設置など】御家人の負担軽減策を行った北条時頼

北条時頼は、寄合という秘密会議や執権職を譲渡した後も実権を握り続けるなどして、自身の立場や北条得宗家を中心とした幕府政治を強化していくようになります。 その一方で、優れた御家人政策を行っていました。 つまり、北条一族内には強い態度で...
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鎌倉時代

【親王将軍】時頼、摂家将軍追放し宗尊親王を将軍に擁立

1247年(宝治元年)11月、4代将軍藤原頼経が鎌倉から追放されるかたちで帰京した後も、頼経の子頼嗣が5代将軍として鎌倉に残りました。 当時、頼嗣は若干9歳。明らかに傀儡将軍でした。 しかし、幕府権威・御家人の象徴である将軍ですので、父...
鎌倉時代

時頼が始めた「寄合」とその事情を解説

1246年(寛元四年)から1256年(康元元年)11月までの11年間、北条時頼は5代執権職にありました。 1256年、時頼は執権職を北条長時に譲った後も、1263年(弘長三年)11月に没するまで、政治の実権を掌握し続けました。北条長時は、...
鎌倉時代

【宝治合戦・三浦氏滅亡】北条時頼と安達一族の謀略!?

1246年(寛元四年)、5代執権北条時頼は前将軍藤原頼経を京都に追放しました。頼経の側近として仕え、反執権勢力を構成していた有力御家人も幕府評定衆から追放されました。 この事件は宮騒動あるいは、寛元の政変と呼ばれていますが、この反執権勢力...
鎌倉時代

【宮騒動・寛元の政変】執権経時・時頼兄弟による反執権派追放劇

1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。 実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経...
鎌倉時代

泰時・時房の死と4代執権の座を巡る北条氏の内紛

北条泰時は、祖父時政・父義時のようにライバル御家人を滅ぼすことで北条氏の地位をあげるのではなく、御家人・官僚から協力を引き出すことで地位を高めていった執権といえます。 泰時は御家人や官僚の協力体制を整えて評定衆を設置し...
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