「室町幕府と北朝の力関係」の話

スポンサーリンク

南北朝時代。

一般的に、室町幕府 VS 南朝(大覚寺統)という構図でとらえられます。

確かに、室町幕府 = 北朝(持明院統)だから、ほぼ間違いありません。

ですが、室町幕府 VS 北朝というのはなかったのでしょうか?

だって、あの徳川家康、徳川幕府ですら天皇家、朝廷とバチバチやっているのですから、室町幕府と北朝が常に仲が良かったと考えるのはナンセンスでしょう。

室町幕府は、北朝によって存在できています。

南朝は室町幕府を認めてないですからね。

だったら、北朝は幕府を意のまま操ってやろう!と考えることもできたはず。

「おい足利。お前を征夷大将軍にし、幕府を開かせてやったのは誰のおかげだ??」

「後醍醐天皇から朝敵されたけど、官軍にしてやったのは持明院統だよな??」

「わかるな??言うことを聞いてもらおうか??」

となりそうな気がしませんか?

「そうはさせじ」と抵抗する幕府があるに違いありません。

それでは、見ていきましょう!!

 

スポンサーリンク

正平の一統

1349年。

観応の擾乱が勃発します。

(観応の擾乱については、また後の講釈)

足利尊氏派、足利直義派、南朝の三勢力が三つ巴の争いをはじめます。

そして、足利直義派は南朝と同盟を結びます。

足利尊氏(北朝)VS 足利直義(南朝)

すごいですな。天皇家が分裂している上に、将軍家も分裂ですよ。

幕府内の武士たちも両派にわかれ、混乱に拍車をかけます。

日本全土が大乱です。

そして1351年。

足利尊氏派(北朝)は南朝と和睦します。

これを「正平の一統」といいます。

足利尊氏(北朝)は、南朝と和睦することで、足利直義を孤立させる狙いがあったわけですね。

和睦後、すぐに直義のいる鎌倉に出陣し、直義を滅ぼします。

しかしこの和睦…

北朝と幕府が、南朝に降伏する形をとっているんですよ。

当時、北朝の天皇だった崇光天皇と皇太子直仁親王は廃され、南朝の後村上天皇が皇位を統一します。

北朝からすれば、勝つためならなりふり構わない足利尊氏に肝を冷やしたことでしょう。

幕府によって、いつ北朝は終了させられるかわからない恐怖があったに違いありません。

異例中の異例だった後光厳帝の即位の大礼

直義が滅ぶと、南朝軍は尊氏留守の京都に攻め込んできます。

正平の一統は5ヶ月弱で終了です。

京都は、尊氏の息子の義詮が留守を守っていましたが、支えきれず京都を放棄します。

そして、義詮は近江で態勢を立て直し、再度京都を制圧。

と、ところが…

北朝歴代の天皇がいない…

光厳上皇、光明上皇、崇光天皇と皇太子直仁親王を南朝軍が吉野に連れ去ってしまったのです。

なぜ、義詮は北朝の皇族を置いたまま、京都を放棄したのでしょうか。その真相は不明・・・。

とにかく、歴代上皇と皇太子が奪われた室町幕府。大変なピンチです。

北朝を復活させたくても、上皇・天皇いなければ幕府は存続できません。

征夷大将軍は、天皇から命じられるものだからです。

いくら滅茶苦茶な南北朝時代であっても、その論理を否定することはできません。

いやー、ほんとに室町幕府ピンチ。

と、思いきや…

京都に北朝の皇子が残っていました。

南朝、痛恨のミス。

光厳上皇の息子で、崇光天皇の弟である弥仁(いやひと)親王です。

幕府は速攻で弥仁親王を即位させます。

ここに後光厳天皇が誕生し、幕府は窮地をしのぐことができました。

しかし、この即位。

異例中の異例だったのです。

新天皇の「即位の大礼」の前に、前の天皇の譲位が行われなければなりません。これを践祚(せんそ)といいますが、上皇が誰もいない…

なので、足利義詮は後光厳天皇の祖母で、伏見上皇の妃である広義門院寧子(こうぎもんいんやすこ)を、上皇の替わりとして立て、践祚を行います。

即位において、異例中の異例です。

幕府のお膳立てなしには即位ができず、さらに正式な即位の礼をできなかった北朝。これでは幕府に強く出れないでしょう。

三種の神器がない

正式な即位の儀式を踏んでいないだけでなく、天皇の即位に必要な、正当性を主張するのに必要な「三種の神器」がありません

この三種の神器。

南北朝時代はヤヤコシイです。

話は、20年前に戻ります。

足利尊氏が建武政権に反旗をひるがえし、朝敵から官軍になって、楠木正成を撃破し、入京したときのこと。

後醍醐天皇は、比叡山に逃れて足利尊氏に抵抗します。

この作戦は、当初楠木正成が提案した作戦です。

後醍醐天皇はメンツを気にして、この作戦を不採用としましたが、楠木正成を失った今メンツなど言っておられません。

正成の作戦を実行しました。

昔から、京都は攻めやすく守りにくい場所でした。

足利尊氏もそのことはよくわかっていたのか、後醍醐天皇に和睦を申し入れます。

和睦の条件は、「三種の神器を北朝側に渡す」です。後醍醐天皇は和睦に応じます。

そして、即位したのが光明天皇。北朝初代天皇です。

ところが、この三種の神器は偽物

北朝はずっと「偽の三種の神器」を持たされていたのでした。

正平の一統のあと、北朝歴代上皇と皇太子が南朝のある吉野に連れ去られたとき、「偽の三種の神器」も持って行かれました

したがって、後光厳天皇は「偽の三種の神器」すらない状態で、即位したのです。

正式な即位の儀式を行えず、三種の神器もない状態で即位しなければならない北朝。

最終的に頼れるのは、実質的軍事力を持つ室町幕府しかなかったのではないでしょうか?

むすび

室町幕府と北朝。

成立当初は、幕府も北朝も自らの正当性がいつなくなるかわからない状態だったと思います。

室町幕府は弱いという評価を覆すために、当サイトは発足していますが、あやうく弱々しい幕府像になりかけました。

しかし、結局のところ、北朝は幕府のお膳立てがなければ、即位の礼もままならないし、三種の神器の代わりに幕府の軍事力を背景に自らの正当性を主張しなければならないのでした。

後光厳天皇以降の天皇は、3代将軍義満に色々対抗しようと試みますが、もはや義満の前にかなうはずもなく。

後光厳天皇以降の講釈はまたの機会に。

スポンサーリンク
室町時代
スポンサーリンク
スポンサーリンク
幻了をフォローする
スポンサーリンク
あなたの隣に室町幕府

コメント

タイトルとURLをコピーしました