鎌倉北条氏について簡単に解説

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鎌倉幕府ナンバー2にして、実質ナンバー1な北条氏。

戦国時代の後北条氏と区別して、鎌倉北条氏・執権北条氏・前北条氏ともよばれますが、この北条一族はすごい。

血筋においては、確かに足利氏や新田氏よりも低いのですが、並みいる御家人を押さえて鎌倉幕府頂点に君臨しました。

位階は五位程度、官職は相模守程度。朝廷での官位も決して高くありませんが、天皇・朝廷を動かすほどの絶大な力を得ます

北条氏ほど不思議な一族は日本史上いないのではないでしょうか?

そんな北条氏。ざっくり見てみましょう。

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北条氏は平氏出身ぽい

平氏出身ぽい」と言ったのは、北条氏の出自がはっきりとしていないからなんです。

足利氏は河内源氏で八幡太郎こと源義家の血筋であることは明らかです。新田氏も武田氏も明らかです。

北条氏は鎌倉幕府ナンバー2で実質ナンバー1ですが、初代執権北条時政より前の代は明らかでないのです。

『吾妻鏡(あづまかがみ)』には「上野介平直方(こうづけのすけたいらのなおかた)五代の孫、北条四郎時政主(ぬし)は当国(伊豆)の豪傑なり」と記され、中条家文書『桓武平氏諸流系図』には、北条氏は直方系(直方とは、鎮府将軍平貞盛の二男維将の孫)としています。

平直方は、清和源氏(河内源氏)の東国進出のきっかけをつくった人物です。

 

平忠常の乱と源頼信~河内源氏の東国進出のきっかけ
鎌倉幕府の創始者源頼朝は、清和源氏の一派河内源氏の出身ですが、頼朝やその父義朝が河内に勢力基盤をもっていた様子はありません。むしろ、その勢力基盤は東国(南関東)にありました。 それでは、この「河内」に基盤を置いた源氏が、いつ、どのようにし...

 

別の資料では、伊勢平氏の祖である平維衡の子孫と記されているようです。

このように、とりあえず北条氏は平氏の血筋のようです。

北条氏は、伊豆国田方郡北条というところを拠点としたため、北条を名乗ったのですが、この地に来たのも一説によれば12世紀頃と言われています。

もしそうであるならば、鎌倉幕府成立は1185年の12世紀ですので、本当に最近の話で時政の祖父・父の頃(親父の名前もはっきりしていません)に来た可能性もあります。

このことから、関東においては、新参者で弱小豪族だった可能性が高く、何代も前から関東に住み着き、武士団を形成している千葉氏や畠山氏、小山氏のような存在ではありませんでした。

ただの弱小豪族ではない?

それでは、北条氏は本当に弱小豪族なのか?という話です。

源頼朝が挙兵したときも、確かに大した軍事力を持ってない可能性があります。

頼朝挙兵時の総兵力は90騎程度と言われています。平家打倒の挙兵と聞けば、現代の私たちは何千騎、何万人という大軍勢をイメージしますが、ささやかな挙兵だったようです。

したがって、北条氏の動員能力は、鎌倉北条氏研究で著名な奥富敬之氏は30騎から50騎、細川重男氏は「北条氏と鎌倉幕府」の中で30騎以下ではないかと指摘しています。

これだけ見れば弱小豪族ですね。北条政子が頼朝に嫁がなければ、マジで弱小かもしれません。

しかし、北条氏の拠点の伊豆国田方郡北条は交通の要衝で、北条氏の居館は伊豆国衙にも近く、当時のメインルートである下田街道添いです。裏手には狩野川が流れており、物資運搬の為に水運を利用もすることも容易でした。また狩野川を渡り、駿河方面を西に向えば駿河湾に出られ、海路も利用出来ました。

北条氏の館跡からは、京都からもたらされたと考えられる青磁・白磁などの陶器類がたくさん出土しています。その時代の鎌倉や他の東国地域にはみられないものが出土しているので、北条氏がかなり先進的だったことが想像できます。

これは他の東国豪族よりも京との交流が盛んだったことの証です。このことから頼朝挙兵前の北条氏はすでに京都と太い関係を持っていたと言えます。ただの弱小豪族ではない可能性が高いですね。

そのことから、北条氏は伊豆国国司に仕える在庁官人だったのではないか?と言われています。

他の御家人とは才能が違いすぎる北条氏

北条政子の父で初代執権の時政。頼朝の義父だったから執権の地位につけたというわけではありません。そういう面は否定できませんが、実力も中々の親父だったのです。

時は1185年。源義経が鎌倉に対して謀反をおこします。

源頼朝は、義経を捕らえるために全国に「守護(惣追捕使)・地頭」の設置を後白河法皇に迫るわけですが、朝廷への全権大使に任命されたのが北条時政。時政はこの大役を見事に成功させています。

伊豆の一豪族、一御家人が、頼朝の義父というだけで、いきなり朝廷と渡り合えるはずがありません。しかも、相手は後白河法皇です。

北条時政は、朝廷に対する知識がたいそう深く、その交渉力は半端なものではなかったと思われます。

一騎当千以上のの頭脳でしょう。片田舎の東国において、その頭脳を養った北条氏の本質が気になるところです。

少なくとも、千葉氏や三浦氏のような武骨な武者とは全く違います。

そして、その才能は息子義時や政子にも受け継がれています。

源実朝が暗殺され、幕府は後鳥羽上皇の皇子から将軍を頂こうと画策します。その際、後鳥羽上皇と直接交渉を行ったのは北条政子でした。

交渉は失敗しましたが、知天の君たる後鳥羽上皇と直接交渉を行う器量と才能を北条政子が持っていたのはすごくないですか?

将軍の妻・将軍の母、執権の娘や姉というだけで、後鳥羽上皇と交渉できるはずがありません。

彼女の実家北条氏で育った土台があったからではないでしょうか?

むすび

北条氏は時政や義時、政子を輩出するような、教養と才能、知謀にあふれるただ者ではない一族であったことには間違いありません。

そんな家柄にありながら、時政より前はほとんど資料がないという謎に満ちた一族なのです。

一族に脈々と伝わる??この知謀をもって、鎌倉幕府の主要な御家人と縁戚関係をつくり、ライバルを次々と倒し、幕府頂点に昇っていく北条一族。

源氏一門の門葉から徐々に一御家人(有力御家人であることには間違いありません)となっていった鎌倉時代の足利氏とは対照的です。

 

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