直義派と師直派~惣領と庶子・一門と譜代

足利尊氏の時代
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足利尊氏の弟直義と足利家執事高師直は、立場や性格においても、あまりにもはっきりと対立する幕府のリーダーでした。

 

 

直義と師直の対立は、しだいに幕府を二分する争いに発展します。幕府の下に集まった武士たちは、自分たちの利害に即して、ある者は直義に結びつき、ある者は師直に頼ります。

今回は、どのような者が直義派に属し、あるいは師直派に属したのか見ていきましょう。当時の武士たちは何を望んでいたのでしょうか?

 

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旧幕府派と武闘派

直義が政務の統括者として、主として裁判機関を管轄したことから、評定衆・引付衆・奉行人などの職員は直義派に属します。この職員たちは、出身から言えば旧鎌倉幕府の文士官僚と足利一門の有力者でした。

尊氏・直義二頭体制

直義派に対して、師直・師泰は将軍尊氏の執事や侍所・恩賞方の長官の立場にあったため、戦功によって重用された武士が多く従いました。戦功によって美濃の守護に取り立てられた土岐氏などはその典型です。

旧鎌倉幕府の文士官僚や足利一門以外の武士は、武功で名をあげる以外に栄達の道はなかったのでした。彼らは、直義派に属していても活躍することはできません。「尊氏-師直」に属して戦う以外に自らの希望を達する道がなかったのです。

なお、足利一門の桃井直常は、鎌倉幕府倒幕でその武勇が知られた武将でしたが、奈良の戦いで北畠顕家を撃破した戦功を師直が無視したのを怒って、直義側についたと言われています。師直の配下ではない武士は、たとえ武功をあげても師直に認められないために無駄な努力に終わることがあったようです。

惣領と庶子

旧鎌倉幕府の御家人や足利一門において、一門・一家の惣領(家督)の多くは直義に、庶子は師直に属する傾向がありました。

これは、直義が執権政治への回帰をスローガンに掲げて、鎌倉幕府の基本政策と言える惣領制を継承したためと考えられています。惣領制は、戦時には一門一家が団結して戦い、惣領が指揮官になります。平時においては、先祖の祭りや一門の氏神の祭祀を惣領が執り行いました。

鎌倉幕府はこの惣領制に基づいて、幕府への軍役、荘園領主や国衙への年貢・公事納入を惣領に課し、惣領が庶子にそれらを割り当てる仕組みをとっていました。庶子も御家人ですが、将軍・幕府とは惣領を通じて結ばれていて、将軍・幕府の直属の御家人ではなかったわけです。もちろん、建前は将軍直属の御家人ですが・・・。

また、直義に属する官僚、とくに法律に関する官僚は、家業を継ぐことで職務能力を獲得できる性質があったことから、必然的に惣領が集まることになります。

一方、師直に属する軍事集団は、比較的個人の軍事能力、つまり武功が発揮しやすいことがあげられます。

たとえば、鎌倉時代以来の近江の守護佐々木氏の場合、惣領の氏頼は直義に属し、庶子の道誉(高氏)は師直と手を結びました。道誉は、しばしば権謀術数を用いて、目覚ましい戦功を挙げ、近江の数郡を与えられます。

惣領の氏頼系が六角を名乗り、庶子の道誉系が京極を名乗って、近江の守護職を半分ずつ領有する体制はこの時に始まります。また、性格においても氏頼は直義に似ていて、道誉は師直に似ていました。

 

 

一門と譜代

足利氏の一門は直義に、譜代の家来は師直に属する傾向がありました。

足利一門といっても、家の格付けがあって、斯波・吉良・畠山のように執権北条氏から足利惣領家に準ずる扱いを受けた家もあれば、代々惣領家に仕えて譜代の家来のようにあつかわれた仁木・細川のような家もありました。

足利氏の姻族である上杉氏、新田一族でありながら足利氏から一門的な扱いをうけた山名・岩松などは格付けの高い家といえます(新田も足利一門という説もあります)。

 

 

格付けの高い足利一門は直義に、低い一門は師直に属する傾向がありました。

鎌倉幕府的な家の秩序を重んじる惣領と、それを破らなければ自らの道を開くことができない庶子との間に亀裂が生じ、一門・一家が分裂していきます。

 

東国・西国武士と畿内周辺の武士

師直は、畿内周辺の新興武士層を多数配下に入れて、大きな軍事力を発揮しました。

 

 

それに対して東国・西国、その中でも関東・奥羽・九州といった武士は比較的まだ同族結合が強い傾向にありました。ですので、身分や家柄にこだわらない師直の方針に反発を感じる武士も多くいたようです。

さらに、関東の武士については、直義が建武政権下で鎌倉将軍府の執権として関東を支配した際の恩顧によって、直義に属する者が多かったようです。

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このように、鎌倉幕府的な秩序の存続を願う勢力が直義に結びつき、それと反対に秩序を破壊したい勢力が師直に結びついたといえます。しかし、このような対立は初期室町幕府に始まったことではありません。

建武政権下で尊氏と護良親王の対立は、実は東国御家人と畿内周辺武士の対立でした。また、尊氏と後醍醐天皇の対立は、惣領系の武士と庶子系の武士の対立という一面を持っていました。

 

 

むすび

南北朝時代に入り、室町幕府は当初に掲げた「鎌倉幕府の復興」という旗印だけでは天下を掌握することは困難となっていました。

旧幕府的秩序から疎外された勢力が、新幕府を脅かす存在まで成長していたからです。室町幕府は、鎌倉幕府と違った新たな対応をこの新勢力に示さなければなりませんでした。

その役割を直接担ったのが師直で、師直のバックに尊氏がつくことで新勢力への保証としたのでした。

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

 

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