義詮

足利尊氏の時代

北朝再建と尊氏・義詮対直冬

第二次観応の擾乱後、南朝軍の京都攻略によって、持明院統の光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王が賀名生に連れ去られたことで、幕府は存続の危機に立たされます。 正平の一統が破談し、再び南朝と対立した幕府は、すでに北朝が消滅...
足利尊氏の時代

正平の一統の破綻と南朝の反撃~八幡の戦いと武蔵野合戦

1351年(観応二年)11月3日、第二次観応の擾乱において、尊氏は鎌倉に下向した直義を討つべく、畿内の後顧の憂いを断つために南朝と講和しました。この講和は「正平の一統」と呼ばれ、皇統を大覚寺統(南朝)に統一するというものでした。 直義が尊...
足利尊氏の時代

第二次観応の擾乱・尊氏対直義~正平の一統と直義の死

第一次観応の擾乱によって、高師直・師泰兄弟以下の高一族とその被官は誅殺され師直派は敗北。直義派は、尊氏・師直派に圧倒的な勝利をおさめました。 尊氏・直義和睦と義詮 1351年(観応二年)2月27日に尊氏が京都に戻り、翌28日に...
足利尊氏の時代

第一次観応の擾乱(直義vs尊氏・師直)~直義の南朝降伏と師直の死

1348年(貞和四年)の四条畷の戦いで声望を再び高めた師直は、直義と激しく対立します。そして、直義が師直を幕政から外す先制攻撃を加えると、師直・師泰は武力によって直義を圧迫。 尊氏の調停によって両者は和解し、幕府は穏や...
足利尊氏の時代

「観応の擾乱」前夜~直義の先制攻撃と師直のクーデター

初期室町幕府の政治は、尊氏と直義の二頭体制によって行われました。実際は、直義の主導で幕政が運営されますが、足利家執事の師直らを中心とする派閥と対立を深めるようになります。 直義は戦争を抑止することで旧鎌倉幕府の秩序を取り戻そうとし、師直は...
足利尊氏の時代

四条畷の戦いで師直派が復活し「観応の擾乱」へ

新田義貞・北畠顕家、後醍醐天皇という南朝の主役が没してからの約10年間、幕府の本拠地である京都周辺は比較的穏やかに月日は流れていきます。 大きな戦がないということは、治世を推し進める直義の声望を高めることになり、戦いによって自らの名声を高...
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