院政の時代

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保元の乱~源平の「武者の世」を告げた歴史的な戦いを解説

1120年(保安元年)に当時関白だった忠実が、白河院の勅勘を蒙り、子の忠通に関白を譲ってから35年。あるいは、崇徳院の希望もむなしく後白河天皇が即位し、藤原忠実・頼長父子が失脚した翌年のこと。いよいよ、源平の「武者の世」を告げる保元の乱が勃...
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天皇の御願寺・法勝寺~白河天皇の巨大造営事業

聖武天皇の東大寺、桓武天皇の平安京、足利義満の金閣・相国寺、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城など、為政者が己の権力を誇示するために巨大建設を行うというのは、日本の歴史にしばしばみられる光景のようです。もちろん、このことは日本特有の現象だけ...
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【院政時代】摂関家領と家政機構の整備~政所・侍所の起源

院政の成立によって、摂関家は政権の座から降りることになりました。その大きな要因は、朝廷内の人事権を法皇・上皇などの院が掌握したからで、摂関の地位も例外ではありませんでした。そして、受領をはじめとする中下級貴族や武士などが人事権を失った摂関家...
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後白河天皇の即位と崇徳院の無念&忠実・頼長父子の失脚を解説

左大臣頼長が養女多子を近衛天皇の皇后に入れたのに対抗して、のちの太政大臣藤原伊通の娘呈子を養女として、多子に引き続いて中宮として天皇の後宮に送りこんだ関白忠通。 忠通・頼長兄弟による摂関家の主導権争いは、摂関時代からありがちな手法もって行...
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保元の乱の原因~摂関家の分裂について解説

ややこしい人間関係の保元の乱。今回は、摂関家が分裂していく経緯についてみていきましょう。 天皇家の分裂については、こちらの記事をご覧ください。 忠実・忠通親子 まずは、藤原忠実。道長-頼通-師実-師通-忠実の順に藤原北家御堂流は継...
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保元の乱理解のために~天皇家の分裂の経緯について解説

「武者の世」の到来を告げた大乱「保元の乱」。源頼朝の父義朝、足利氏祖の足利義康が活躍しますが、この大乱は彼ら武士たちが引き起こした戦いではなく、天皇家と摂関家の分裂に端を発したものでした。この分裂は非常に複雑で、何が何やら意味不明という方も...
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河内源氏を凌駕する伊勢平氏の躍進~平正盛の活躍を解説

今回は、平氏を源氏に並ぶ存在まで押し上げた平正盛の活躍についてみていきましょう。正盛は清盛の祖父にあたります。 まずは、平正盛の系統「伊勢平氏」の動向から。伊勢における平維衡と致頼(ともより)との争いは、それぞれの子の正輔と致経に受け継がれ...
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平正盛が所領を六条院へ寄進した理由

源氏の風下に立たされ続けた平氏ですが、源氏が一族の内紛で没落すると、源氏にとってかわります。しかし、源氏が衰退すれば、必然的に平氏が興隆したというわけではありません。弱小勢力だった平氏と武士の長者河内源氏。そこには乗り越えられない壁みたいな...
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