北条時定・北条時政の従兄弟。甥とも弟とも。

北条時政の時代
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時政より以前の北条氏の系図はあいまいで、北条時政の父親ですらその名前は正確ではありません。執権として幕府を動かし、日本の歴史を動かした北条一族ですが、その出自は実にあいまいなものなのです。

また、鎌倉時代に登場する北条氏は全て時政の子孫と言っても過言ではありません。そのような中で唯一、時政の系統以外で鎌倉幕府に名を残した人物がいます。北条時定(1145~1193)です。

今回は、その北条時定の人生を見てみましょう。

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ややこしい系図と時定の誕生

1145年(久安元年)、北条時兼の子として生まれました。北条時兼は、北条時政の父時家の兄弟と言われています。時兼と時家のどちらが先に生まれ、どちらが嫡流なのか明らかにはなっていません。時政の父時家と祖父時方が逆になっている系図もあることから、時政の父が時家であることも怪しいのです・・・。さらに、時政と時兼の関係は従兄弟であるとか、弟・甥であるとか、はっきりしたことはわかっていないのです。

時政・時定系図

時定の活躍

1180年(治承四年)8月、源頼朝の平家打倒の挙兵に参加していることから、伊豆国目代(国司の代理)の山木兼隆を急襲し、源頼朝が大庭景親。伊東祐親に大敗した石橋山の戦いに参加したと考えられます。この石橋山の戦いでは北条時政の嫡男で、時定の甥にあたる宗時が討死しています。

1185年(文治元年)11月、源義経追討のために時政とともに上洛し、1186年(文治二年)3月には時政が鎌倉に下向したあとも在京し、時政の名代として義経追補や洛中警固にあたっています。

同年5月12日、源義経とともに頼朝打倒の挙兵におよんだである源行家(頼朝の叔父)を和泉国で討ち、13日には行家の子光家らを討ちます。6月16日には大和国で義経の娘婿源有綱を誅殺しています。

畿内での義経残党討伐の勲功によって、7月13日に左兵衛尉に任ぜられると同時に、検非違使にも任ぜられました。

乱暴な地頭だった時定

9月13日、時政の地頭代として、最勝寺領越前国大蔵荘での押領(武力をもって他人の所領や年貢などを奪う行為)を頼朝にとがめられています。しかし、さらに伊賀国若林御園・河内国衙領を押領し陸奥領と自称。そのことを朝廷が頼朝に訴え出たため、頼朝から国司の命に従わなければ地頭を取り上げるととがめられます。

1189年(文治五年)4月10日、賀茂臨時祭および御祈(陰陽師や僧侶が、将軍家の疾病や怪異・天災などを払う祈祷のこと)の功により左衛門尉に任じられましたが、翌1190年(建久元年)7月に辞退します。

1193年(建久四年)4月25日、京都で死去しました。享年49歳。

時定には娘がおり、笠原親久に嫁いでいます。嫡男がいたかどうかは不明です。もしいたならば、勢力争いに発展していたことでしょうから(北条氏のことですから)、嫡男はいなかったのではないでしょうか。

参考文献

北条氏研究会編著『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。

 

 

 

 

 

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