摂関期の荘園・私領と寄進について解説

荘園
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摂関期の荘園は、「免田・寄人型荘園」と呼ばれ、「初期荘園」から「中世荘園」への過渡期的な荘園と考えられています。そして、国衙(国司の役所)の支配下にありました。

今回は、そんな過渡期的で、国衙の支配下にあった私領・荘園の現地での動きについて見てみましょう。

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私領の形成

開発領主が所有していた所領は、私領に分類されます。

私領は本来、「永年私財田」として認められた墾田・治田に由来する所領が、国司などにより認可・立券されたものを呼んでいました。

この立券は、現地に郡司・在地司(国の役人)と領主の使者が立ち会い、確認作業を行うなどの手続きを経て行われます。この立券の「手続き」の方法は、摂関期にはほぼ固まっていたようです。

しかし、摂関期の私領に関する考え方は、「本来の私領」のあり方よりも広い概念になっていて、所領の権利関係が複雑になっていました。

どういうことか見てみましょう。

摂関期の時期、国内の公領(公田)は荒廃していたので、国司は「再開発奨励策」を打ち出します。この奨励策は、公領内でも申請すれば開発が認められるというものでしたが、この再開発された公領が私領と呼ばれるようになっていきます。公領でも、再開発された土地は一定の税を納めれば私領として認めるというものです。

逆に、荒廃田奨励策のなかには、「私領も公領の一部」という考えが示されました。三年間耕作されなかった私領や荘園については、国司から認可を受ければ荒廃田の開発ができました。

私領であっても、三年も放置していたら国司の権限がおよぶ公領」というわけです。

このようにして、公領や荘園の中に私領が生み出されることになります。

超ややこしいですね。

この荒廃田の再開発に最も力を入れ、私領を形成していった人たちは、「五位以下諸国官人以上」と言われた中下級貴族僧侶たちでした。

彼らは既存の私領をもとにして、さらに荒廃田の再開発を請負い、大規模な私領を形成を行っていったのです。

さらに、中下級貴族や僧侶たちは、国司と強い関係をもって、優位な条件を獲得して国免荘を形成していきます。国免荘は、国司の権限で租税官物や臨時雑役などが免除された荘園のことです。

寄進の展開

国司の認可に基づいて自らの所領を拡大していった開発領主(私領の領主)ですが、国司が替わるたびにその権益を承認してもらう必要がありました。

そして、国司が交代すると、手違いで収公(荘園没収)されるトラブルが度々発生します。

ですから、開発領主たちが安定的に所領を維持していくには、国司からの認可を容易に得られる体制を築いておく必要がでてきたのです。

国司は、京都から派遣されてくる中級貴族で、彼らの地位は京都での活動に基づいています

開発領主はここに目をつけます。

開発領主は、国司たちの上司、つまり国司よりも身分の高い有力貴族たちと結びつくことで、国司が交代してトラブルが起こっても、有力貴族から国司に「口利き」や「圧力」をかけてもらうことで、私領を安定的に維持しようとしたのでした。

たとえば、山城国にあった祇園感神院(八坂神社)の田畠は、藤原頼通にその所領を申請し、頼通から国司に認可するように働きかけて、その領有を認められています。

このように、国司交代時の手違いによる収公(荘園没収)によって所領経営が不安定になるのを防ぐために、開発領主たちは自らの所領を有力貴族たちに寄進していくようになりました。(この場合の寄進は、不輸の権・不入の権を獲得するために寄進する「寄進地系荘園」とは性格が異なっています

 

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一方、寄進される側の有力貴族は、消極的、受け身的な態度で土地を受け入れていて、自らの所領として荘園を形成する意識はありませんでした。

つまり、摂関期は院政期のように「ガツガツ」と荘園の形成を意図していなかったのです。

1069年(延久元年)、後三条天皇が「延久の荘園整理令」を発したとき、藤原頼通のもつ荘園も整理の対象となり荘園の券契(証明書)の提出が求められました。

そのとき頼通は、「50余年、帝のご後見として関白をしていた間に、所領を持っている者が強縁を持とうとして寄進してきたのを、そうかと言って受け取ってきましたので、文書はありません。これが不当であり、不確かなところは、みな停廃されるべきでしょう」(『愚管抄』)と述べたといいます。

 

延久の荘園整理令と記録所について解説~後三条天皇の親政
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寄進の変化

近江国柏原荘は、古代に在地豪族が開発した墾田地を何らかの形で手に入れた源頼盛という中下級貴族の荘園でした。

11世紀中ごろ、頼盛は入手した荘園に対して、国司の認可を受けて租税免除の特権を得ようと考えました(国免荘)。そこで、京都で関係をもっていた藤原能信(道長の子)の力を借りるため、荘園の寄進をおこないます。能信は国司への働きかけを行い、頼盛は特権を得ることに成功しました。

ここまでは、摂関期にありがちな荘園の寄進です。

しかし、頼盛が頼った藤原能信は、道長の子でしたが、傍流の子だったことから、京都での影響力では嫡流の頼通より劣っていました。

頼盛は、開発領主という立場ではなく、中下級貴族の立場で藤原嫡流とのつながりを求めるようになります。

11世紀末頃、上級貴族が家産機構を整備し始めたのをチャンスととらえた頼盛は、白河天皇の中宮賢子(関白師実の養女・頼通の孫)に自らの所領を寄進して藤原嫡流家の家産機構に入り込もうとしたのです。

家産機構とは、支配階級の長が土地や社会的地位を自らの家産(家の財産)のように扱い、家父長制によって統治する仕組みのことです。

頼盛の所領は、賢子の所領としてすぐに組み込まれることはありませんでしたが、白河院と賢子の娘郁芳門院に引き継がれて、柏原荘として立荘されることになります。

このような政治的関係を求めた寄進の例として、平氏による六条院への荘園寄進が知られています。

 

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このように、上級貴族による家産機構の整備と、中下級貴族による上級貴族との政治的関係構築という目的が一致し、寄進が展開していくことになります。

 

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